華族でも学習院関係者でもない
美智子さまが皇太子妃となられた経緯

 さて、当時、皇太子だった現在の上皇陛下のお妃探しは、華族が経済的に困窮していたこともあり難航していた。世間では旧宮家の北白川肇子さんが最有力だともいわれたが、話は進まなかった。血縁関係が濃すぎるのが問題だったのではないか。

 学習院女子部の同窓会である常磐会会長で宮内庁教育参与だった松平信子氏は、二人の学習院関係者の女性を推薦した。その一人は、堀内詔子元ワクチン担当相の叔母である三井富美子氏(長州出身の伯爵家で学者だった林友春氏と、牧野伸顕氏の娘・貞子氏が両親)だったらしいが、辞退した。

 こうしたなか、候補者の範囲を広げ、旧華族でも学習院でもないが、すでに殿下と面識があった美智子さまを皇太子妃とするよう、小泉信三氏が話をまとめ上げた。

 これがいかに思い切った話だったかというと、美智子さまと雅子さまの間に皇室入りした4人の女性は、華族でなくとも全員が学習院関係者である。

 常陸宮妃華子さまは、伯爵の津軽藩主家出身。三笠宮寛仁殿下の信子妃は、麻生太郎元首相の妹だが、母親は吉田茂元首相の娘で大久保利通のやしゃご。高円宮久子妃の父は三井物産幹部だが、母方は外交官で、九条家にもつながって大正天皇の妻・貞明皇后の縁者。秋篠宮妃紀子さまは曽祖父が学習院の教官で、父親も教授である。

 前述した通り、松平信子氏は宮家・公家・大名家でなく明治の勲功華族まで広げていた。だが、美智子さまは平民で、学習院関係者でもない。

 それでも小泉氏が強行突破を図ったのは、美智子さまの資質が群を抜いたものだったからだ。美智子さまは、小学校は雙葉に入られたが、疎開の後、聖心女子中学に進まれている。

 早くから才色兼備で知られ、縁談が殺到し、作家・三島由紀夫とも見合いされたことを三島が語っている。いわば理想のお嫁さん候補だったのであり、各方面を納得させられると思った。

 だが、華族社会といった漠然としたものだけでなく、女性皇族や旧宮家の人々の反対は激烈だった。特に、秩父宮妃勢津子さまやその伯母である梨本伊都子氏が、その中心だった。二人とも鍋島家の血を引いているから、美智子さまの母親の実家が自分たちの陪臣の家だというのもショックだったのだろう。

 小泉氏は最後には勢津子さまの面談要請を断って強行突破し、香淳皇后は納得できないようだったが、昭和天皇が承諾し、皇太子の姉の東久邇成子さんが自宅のホームパーティーに招待して受け入れ姿勢を示してなんとか収まった。

 ただ、それでも、華族社会の風習には疎く、また、意地悪もあったといわれ、プロトコールに反したととがめられるなどご苦労は続いた。