私たちはふだん、人体や病気のメカニズムについて、あまり深く知らずに生活しています。医学についての知識は、学校の理科の授業を除けば、学ぶ機会がほとんどありません。しかし、自分や家族が病気にかかったり、怪我をしたりしたときには、医学や医療情報のリテラシーが問われます。また、様々な疾患の予防にも、医学に関する正確な知識に基づく行動が不可欠です。
そこで今回は、21万部を突破したベストセラーシリーズの最新刊『すばらしい医学』の著者で、医師・医学博士の山本健人先生にご登壇いただいた、本書刊行記念セミナー(ダイヤモンド社「The Salon」主催)の模様をダイジェスト記事でお届けします。(構成/根本隼)

【医者が教える】ワクチンの語源は、なぜか「牛」。その意外な理由とは?Photo:Adobe Stock

Q. ワクチンという言葉を作ったのは誰?

①アレクサンダー・フレミング
②北里柴三郎
③エドワード・ジェンナー
④ルイ・パストゥール

 これは、ひっかけ問題です。③エドワード・ジェンナーが正解だと思った人が多いのではないでしょうか。

 イギリスの医師ジェンナーは18世紀後半、天然痘と似た病気である牛痘にかかった患者の「膿」を人間にわざと注射して、軽度の感染症を起こさせる「種痘」という手法を思いつきました。

 それによって、天然痘に対する抵抗力をつけさせ、人体の免疫機能を高めたのです。これが、「予防接種」の先駆けとなる大発見でした。

 彼は、種痘の実験の参加者を23人も集めて、きちんとデータを取って論文として発表したのですが、当時は厳しい批判にさらされました。「種痘は牛からできたものだから、注射しても効果はない。それどころか牛になってしまう」などと揶揄され、なかなか信用されなかったのです。

 その後、ジェンナーは1823年に亡くなりましたが、ルイ・パストゥールというフランス人の化学者が1880年代に、病原体を弱毒化する手法で炭疽や狂犬病のワクチンを作りました。その際、パストゥールは「『予防接種』という方法を最初に発見したのはジェンナーだ」とその功績を称え、種痘のことを「ワクチン(vaccine)」と命名したのです。

 なので、冒頭のクイズの答えは、④ルイ・パストゥールとなります。

 なぜワクチンと名付けたのかというと、ラテン語で雌牛のことを「ワッカ(vacca)」というからです。つまり、ワクチンの語源は「牛」なのです

「ペニシリン」の誕生秘話

 以上のエピソードから学べる教訓は、ジェンナーのように、「正しい」と信じたことはきちんとデータとして記録し文献に残すのが大事だということです。それによって、仮に自分が生きている間に正しく評価されずとも、いつか脚光を浴びる可能性があるからです。

 たとえば、ヴェルナー・フォルスマンという人物がいます。彼は1929年、自分の体に針を刺して、血管からカテーテルを入れて、心臓に到達させました。そして、心臓に到達したカテーテルの様子をX線写真に残し、論文を書きました

 彼はこの実験を25歳で行なったのですが、「あまりにも危険だ」と誰からも評価されず、上司の怒りを買って研修先の病院を辞めさせられたそうです。

 しかし、その実験から約30年後の1956年、フォルスマンはノーベル生理学・医学賞を受賞することになります。

 なぜかというと、アメリカのディッキンソン・リチャーズとアンドレ・クールナンという2人の内科医がカテーテル技術を実用化したのですが、論文をさかのぼってみると、カテーテルの論文を最初に発表したのはフォルスマンだということが判明したからです。このとき、3人同時にノーベル賞を受賞しています。

 また、アレクサンダー・フレミングは、1928年に世界で初めてペニシリンを発見しました。これは、彼が研究していた黄色ブドウ球菌という細菌に「アオカビ」が生えた際、カビの周りだけ黄色ブドウ球菌が育っていないことに気付いたのがきっかけです。

 このことから、彼は「アオカビから細菌をやっつける物質が生じている」と考えて、アオカビの学名ペニシリウムにちなみ、その物質を「ペニシリン」と名付けました。

 しかし、ペニシリンの量はあまりに少なく、大量生産も難しかったので、彼は薬として実用化できるとは夢にも思いませんでした。なので、論文に書いて記録に残した後は、ほかの研究をしていたそうです。

 ところが、その12年後、ハワード・フローリーとアーネスト・ボリス・チェインという2人の科学者がペニシリンの大量生産に成功し、抗生物質として感染症の治療に使えるということを明らかにしました。最初にペニシリンの論文を書いたのはフレミングだったので、これまた3人同時にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

「パーキンソン病」の名付け親は?

 ジェームズ・パーキンソンという名前は、とても有名です。「パーキンソン病」は、いまや誰でも知っている病気だと思いますが、実はこの病気の名付け親はパーキンソン本人ではありません。

 パーキンソンは1817年、手の震えや前傾姿勢で歩くなどの特徴的な症状が現れる病気の患者を6例、症例報告として最初に発表したのですが、当時はあまり注目されませんでした。

 ところが、その60年後、神経学の大家であるジャン=マルタン・シャルコーが、同じ病気にかかっている人が実はたくさんいることに気付き、過去の文献を調べました。その結果、パーキンソンがこの症例を報告していたことがわかったので、シャルコーは先人に敬意を表して「パーキンソン病」と命名したわけです。

 そのとき、パーキンソンは既に亡くなっていたのですが、研究成果をきちんと記録していたので、その名を残すことができました

「ビタミンの日」はいつ?

 鈴木梅太郎という日本人は、世界的にはあまり知られていませんが、日本では有名です。1910年に世界で初めて、いまでいう「ビタミンB1」を発見した人物です。当時はまだビタミンという名前がなかったので、彼は「オリザニン」と名付けました。

 ところが、彼はこの発見を日本の学会で発表して、日本語の論文にまとめただけだったので、日本人以外の研究者がその成果を知ることはありませんでした。

 残念なことに、翌1911年、カシミール・フンクというポーランド人が、同じ物質を発見して「ビタミン」と命名しました。現在、世界的には、フンクが第一発見者とされています

 やはり、研究者は世界に通用する言語で成果を発表しないと発信力が弱いですし、歴史に名前を刻むことはできません。ちなみに、鈴木がビタミンB1を発表した12月13日を「ビタミンの日」と呼んでいるのは日本だけです。

(本稿は、ダイヤモンド社「The Salon」主催『すばらしい医学』刊行記念セミナーで寄せられた質問への、著者・山本健人氏の回答です)