人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。
死亡40人、失明者も多数
二〇一二年九月、チェコでウォッカやラム酒などのアルコール飲料を飲んだ人たちが次々と体調不良を起こし、結果的に四〇人以上もが死亡するという事件があった(1)。
失明などの重度の症状を起こす人も多く、被害は大規模に及んだ。原因はメタノール中毒である。
メタノールは、アルコールの一種である。そもそも「アルコール」とは、炭素原子Cと水素原子Hでできた炭化水素の水素原子一つをヒドロキシ基(-OH)に置き換えた物質の総称だ。メタノール、エタノール、プロパノールなど、異なるさまざまな化合物が「アルコール」に含まれる。中学校の化学の授業を思い出した人も多いだろう。
エタノールとメタノールの違い
日常的には、お酒を単に「アルコール」と呼ぶことが多いため誤解されがちだが、お酒に含まれるアルコールは「エタノール」である。エタノールは中枢神経系に作用し、「酩酊」の症状を引き起こす。過量摂取すると生命を危機に至らしめる物質だが、もちろん適量であれば健康に大きな問題はない。
つまりエタノールは、「人間が飲んでも大丈夫なアルコール」である。一方、メタノールは人体にとって猛毒であり、名前は似ているもののエタノールとは全く別の物質だ。頭痛や嘔吐、腹痛などの多彩な症状を引き起こし、視神経にダメージを与え、視力障害、ひいては失明に至らせることもある。
医学部の講義では、このメタノールの特徴的な中毒症状を覚えるため、メタノールの別名「メチルアルコール」をもじって「目散るアルコール」と表現される。ともかくメタノールは、少量でも死に至る恐れのある恐ろしい化合物なのである。
当時のチェコではアルコール飲料の流通システムが十分に整っておらず、メタノールを含む密造酒が市場に出回っていた。不運にも、スーパーやキオスクなどで酒を安価で購入した人たちが、悲惨な被害に遭ったのだ。この事件では、アルコール飲料を製造した二人が終身刑を言い渡されている(1)。
アルコールの代謝システム
人体には、アルコールを分解、代謝するシステムが備わっている。その重責を担う臓器は、肝臓だ。私たちがお酒を飲むと、胃や小腸で吸収されたエタノールは肝臓に運ばれ、まずアルコール脱水素酵素によってアセトアルデヒドに分解される。
アセトアルデヒドは、アルデヒド脱水素酵素によって無害な酢酸に分解される。酢酸は、いわゆる「酢」である。最終的に酢酸は二酸化炭素と水に分解され、体外に排出されるしくみだ。一方、メタノールが体内に入ると、同様にアルコール脱水素酵素によってホルムアルデヒドに、アルデヒド脱水素酵素によってギ酸に分解される。
このギ酸こそが人体にとって有害な酸性の物質であり、体内に蓄積することでさまざまな臓器に障害を引き起こすのである。エタノールの中間代謝産物であるアセトアルデヒドは、二日酔いの原因としてよく知られた物質だ。