『源氏物語』には、『日本書紀』の名が挙げられているだけでなく、『史記』に描かれた戚夫人の憂き目のこと(『源氏物語』には具体的には記されませんが、呂后が彼女の両手両足を切断し、人豚と称して便所に置いたエピソード)を引用するなど(「賢木」巻)、内外の歴史書に通じた紫式部ならではの知識と世界観がにじみ出ています。
『紫式部日記』によれば、紫式部は、左衛門の内侍と呼ばれる内裏女房に、“日本紀の御局”というあだ名を付けられてもいました。
『源氏物語』を読んだ一条天皇が、
「この人は日本紀(『日本書紀』などの歴史書)を読んでいるようだ。実に学識がある」
と仰せになったのを、この女房が耳に挟んで、当て推量で「えらく学問を鼻にかけている」と殿上人などに言い触らして、そんなあだ名を付けたというのです。
大塚ひかり 著
紫式部がちやほやされていることへの嫉妬でしょうが、紫式部は「実家の侍女の前でさえ慎んでいるのに、宮中なんかで学問をひけらかすわけがない」と否定しながらも、直後、幼いころから、漢文を読む学者官僚の父と兄弟の前で、自分は不思議なほど理解が早かったというようなことを書いており、学問があると思われることはその実、まんざらでもないような書きぶりでもあります。
ただ当時は、学者の道は女には閉ざされていましたから、父は賢い紫式部のことを、
「残念なことに、この子が男の子でなかったのは不運だった」
と、常に嘆いていたと、紫式部は書き記しています。
平安中期の貴族社会では、女のもとに男が通う結婚形態が基本だった上、大貴族ともなると、娘を天皇家に入内させ、生まれた皇子を皇位につけて繁栄していました。
そんなこともあって、女の子は大事にされ、またその誕生も歓迎されていたのですが、学者の家では別で、男の子が望まれていたわけです。
とはいえ紫式部は、自身が日記に書いているように、彰子中宮に『白氏文集』などを講義しています。学問の才は無駄になるどころか、大いに役立ち、何より『源氏物語』の世界にも深みと厚みをもたらしたのです。