赤子を抱く平安貴族Photo:PIXTA

源氏物語では多くの男たちが、添い遂げられなかった女の「身代わり」として似た容姿の女を求め、“身代わり女”たちは男との関係に苦しんでいる。なぜ“容姿が似ている”ことが大事なのか?そこには仏教思想が関係していた――。本稿は、大塚ひかり『やばい源氏物語』(ポプラ社)の一部を抜粋・編集したものです。

女の容姿を知るすべが
限られていた平安時代

『源氏物語』を初めて読んだ中学生時代、奇異に感じたことは多々あるのですが、最も奇妙に思ったのは、登場する男たちの多くが、愛するけれども結婚できない、もしくは添い遂げられない女の「身代わり」として、彼女によく似た容姿の女を求めていた点です。

 え?「見た目が似た女」で満足できるの?男ってそんなに単純なの?というのが、当時の私の率直な感想でした。

 桐壺帝は、亡き桐壺更衣に似た女性ということで藤壺を愛し、源氏は愛慕する継母・藤壺に似ているからと、その姪の紫の上を妻にし、宇治十帖の薫は、亡き大君に似ているからと、その異母妹の浮舟を囲い者にする……。

 それでいいのか、満足なのか……と思うんですが、たとえば桐壺帝の場合は、藤壺を妻にした結果、

「桐壺更衣を失った悲しみが紛れるわけではないけれど、しぜんとお心が移ろって、格段にお気持ちが慰められるようなのも、しみじみ胸に迫ることなのでした」(“思しまぎるとはなけれど、おのづから御心うつろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり”)(「桐壺」巻)

 という感じになっている。

 悲しみは紛れないまでも、心は慰められるというんです。

 でもそれなら、なにも容姿が似た女でなくても、新しく愛する人が現れれば、そうした心境になるものじゃないですか?

 別に似ていなくたって、素敵な女であれば、それで良くないですか?

 なぜ、「見た目が似た女」に、『源氏物語』の男は萌えるのか。今思うとそれは、当時の結婚制度とか、貴族社会の慣習とも深く関わっているのではないか。

 貴婦人が、親兄弟と夫以外の男には顔を見せなかった当時、女がどんな容姿をしているかは、「噂」か「覗き見」(“垣間見”といいます)で知るしかありません。

 垣間見は、男が女のもとにある程度通っていて、そこの女房などを手なずけないと難しく、ハードルが高いのですが、「噂」というのは、「どこそこの令嬢はこんな容姿らしい」「あそこの北の方はあんな感じらしい」と、普通に暮らしていても入ってくるものです。