人を動かすには「論理的な正しさ」も「情熱的な訴え」も必要ない。「認知バイアス」によって、私たちは気がつかないうちに、誰かに動かされている。この心理的な傾向を、ビジネスや公共分野に活かす動きも最近は顕著だ。認知バイアスを踏まえた「行動経済学」について理解を深めることは、さまざまなリスクから自分の身を守るためにも、うまく相手を動かして目的を達成するためにも、非常に重要だ。本連載では、世界的ベストセラー『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から、私たちの生活を取り囲むさまざまな認知バイアスと、「人を動かす」ためのヒントを学ぶ。今回のテーマは、「人間の思考力を低下させる2つの要素」だ。(構成:川代紗生)

勘違いが人を動かすPhoto: Adobe Stock

「お金」と「時間」がないと、人間の思考力は低下する

「お金がない」ときに人は頭が悪くなる。『勘違いが人を動かす』のページをめくっていたとき、この一文が飛び込んできた。その瞬間、はっと数年前の出来事が頭に浮かんだ。

 20代前半のころ、いろいろな事情が重なって、私にはとにかくお金がなかった。貯金はおろか、家族や友人にまでお金を借りてなんとかやりくりしていた始末で、銀行口座の数字を見るたび、背中にじっとりといやな汗がにじんだ。

 仕事の責任も徐々に重くなってきたころで、朝は早く、夜は遅かった。時間もお金もなかった。

「お金ないのに、なんでコンビニでごはん買うの? スーパー行って、自炊すれば、かなり節約できるのに」

 私のカツカツ具合を見て、呆れたようにそう言う知人もいた。言いたいことはわかる。毎回毎回コンビニに行って、一食500円のお弁当を買うより、自分でつくったほうが圧倒的に安上がりだ。

 でも、どういうわけか、それができないのだ。「お金がないから無駄遣いはダメ」と頭ではわかっているのに、ハーゲンダッツのバニラアイスを買ってしまう。コンビニ弁当どころか、お菓子もわんさか買っていた。

 結局、月末近くになって、意味のわからない散財をした自分を恨むことになった。その繰り返しだ。

「貧困」ストレスによる「現状偏重バイアス」

 本書に書いてある言葉を読んだとき、自分のことかと思った。

お金がない人は、ときにおかしな行動をとる。
スクラッチくじや宝くじを買ったり、貯金をしなかったり、大きな借金をしたり。残念ながら、それは習慣になり、結果としてさらにお金がなくなる。(P.258)

 まさにそのとおりで、「なんであんなことしちゃったんだろう」とあとで後悔するような行動ばかりしていた。

 第一、お金がないならないで、役所に相談したり、家計簿をつけたり、もっと給料のいい仕事探しをしたりと、いくらでもやれることはあったはずだ。にもかかわらず、むしろ、よりお金を使うような選択をしてしまうのである。

 本書では、さらにこう続けられている。

とはいえ、「貧しい人がこうした選択をしてしまうのは、教育や社会環境のせいだけではなく、生まれ持った性格のせいだ」と容易に考えてはいけない。それは大きな誤解だ。貧困とは誤った選択の結果ではなく、むしろ原因なのである。(中略)
貧しさは、「現状偏重バイアス」を引き寄せる精神状態をつくり出す。(P.258)

 貧しさが思考力を低下させることは実験でも明らかになっており、たとえば、インドの農業従事者を対象に、IQテストを行ったところ、収穫期直前のほうが、収穫直後よりも、スコアがはるかに低かったそうだ。

 収入を得た直後の人は、生活費のことで頭がいっぱいの人よりも、賢明な判断ができたということになる。

「私はインドの農業従事者ではない」と思った人もいるだろう。しかし、思いがけずお金に困ると、誰でも近視眼的な反応をするものだ。この心理状態は、お金と時間、どちらが不足しても引き起こされる。両者の影響が似ているためだ。(P.259)

 自分自身の状況に置き換えてみると、残り2000円で1週間やりくりしなくてはならないという切迫感に加えて、仕事が忙しく、時間がないという焦りもあった。つねに不安に取り囲まれ、精神的にもいっぱいいっぱいだった。

 こうなると、人は、重要度がそれほど高くない目先の問題をどう解決するかで頭がいっぱいになり、じっくりと物事を考える余裕を失ってしまうという。

 支払いや忙しさのストレスで、おかしな判断をしてしまうのには、理由があるらしい。

「どうしてあんなことを…」後悔を捨てきれない人がやるべきこと

 本書にはこういった、「なぜ人間は(自分の意思に反して)おかしな行動をとってしまうのか」という問いへの答えが並んでいる。

 もちろん、ビジネスに活用できる箇所も多々あるが、同時に、本書にはセラピー的効能もあると、私は感じた。というのも、本書を読んでいると「あれは、仕方のないことだったのだ」と、過去の失敗を許せるような気がしてくるからだ。

 誰しも、「できることならやり直したい」と思うような苦い記憶を持っているだろう。「なんであんなこと言っちゃったんだろう」と、人間関係でのいざこざを思い出しては、後悔することもあるかもしれない。

 そんなときは、本書を読んでみてほしい。「そうせざるを得なかった」かもしれないのだ。

 人の「行動」の責任は、その人の性質だけにあるわけではない。「認知バイアス」の影響を、我々は意外なほど受けてしまっている。

 悔やんでも悔やみきれない記憶があるならば、本書を読んで、答え合わせをしてみてはどうだろう。きっと少しは、自分を許せるような気持ちになるかもしれない。

(本記事は『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』より一部を引用して解説しています)