人工呼吸器を着けたシニア男性写真はイメージです Photo:PIXTA

死ぬ間際に、「あれをやっておけばよかった」と嘆いても、もう遅い。失敗を怖れて挑戦せずに生きた虚しさを死の床で突きつけられるのは、残酷なことだ。意味のある人生を生きたいと思うなら挑戦は避けて通れず、そこに失敗はつきもの。自分の持てる力を使い切って生きるところに人間の幸福があり、成功するか失敗するかは大した問題ではないのだ。本稿は、加藤諦三『「人生、こんなはずじゃなかった」の嘆き』(幻冬舎新書)の一部を抜粋・編集したものです。

「俺は皆を支配したい!」
という悲痛な叫び

 ある人は晩年に「女をみんな殺したい」と書き残した。そして「やろうとしたことの一つでもしていたら、俺の人生も違ったものになったであろう」と言って死んでいった。
 要するに判断力の全くない、優柔不断な人の人生である。

 この人の心の本当の叫びは、「俺は皆を支配したいんだ!」という悲痛な叫びである。自分の無力感を癒したいのである。しかしこの人は、自分の無力感に気がついていない。

 もし小さい頃から、そのときそのときの心理的課題を解決して生きていれば、こんな悲痛な叫びはない。

 この人は無意識の絶望感から目を背けたままで、「さあ、やるぞ」と言っている。自分が自分に絶望しているという真実から目を背けたままで、つまり「本当の自分」を知らないままで、何かをやろうとしている。しかしやることは見つからない。

「さあ、やるぞ」という「言葉」があっても、自己執着が強いから周囲の世界に興味と関心がない。

「さあ、やるぞ」と言っても、「自分は絶対にやらない」と言っても、人形が言っているのと同じである。

 今まで現実否認をし、自我価値の防衛ばかりにエネルギーを使った生き方をしていた。

 自分が小さい頃から人生の諸問題を何も解決しないで生きてきたことに気がつけば、生きる道は広がる。

 つまり、長い間、自我価値の防衛の生き方、人に見せるためだけの生き方、その生き方の結果として「自分には好きなことがない」と気がつく。そしてそれを認める。そこで新しい人生が拓ける可能性が出てくる。

 この人は「本気で考えよう」と言いながら、本気で考えていない。本気で考えることがどういうことだか理解できていない。自己疎外された人には「本気」ということの意味が理解できない。

「さあ、やるぞ!」

 そう言う人の目的は、適切な目的ではない。自分にとって何が適切な目的かわかっていない。

 自分を知ることが第一である。「さあ、やるぞ」と言う前に、自分の今の位置を知ることである。

「さあ、やるぞ」と言いながら、その前に自分の過去の整理ができていない。自分への失望を整理できていない。誇りを失った自分に気がついていない。

 無意識にある自分への失望が意識化できて、自分の位置を理解でき、初めて「さあ、やるぞ」が具体的な意志になる。

 この人は、このままでは高校生が「俺は世界を征服する」と言っているのと同じである。この高校生は要するに生きるのが怖いのである。周囲の世界が怖いのである。こう言わなければ怖くて仲間と付き合えない。