死を前にした高齢者が「やろうとしていたことの一つでもしていたら『俺の人生は』また変わっていたろう」と述べた。

「しよう」と思ったことは、政治家になりたかった、農業をしたかった、離婚したかった等々いろいろとあっただろう。しかしすべてリスクが伴う。立候補すれば落選するかもしれない、職業を変えれば生計が不安である、離婚をすればそれ以上にもっと不安になる。

 要するに「やろうとしていたことの一つでも」やらなかったのは失敗するのが怖かったからである。

「しよう」とはしたが、現実には何もできないで終わったのは、そこまで失敗が怖かったということである。そこまで自信がなかったからである。

「そこまで人から良く思われたいか」というほど、人から良く思われたかったということである。

 失敗を怖れることで、どのくらい人生の幅を狭くしているか。どれほど楽しいことを犠牲にしているかわからない。

 若い頃から失敗を怖れて、人生の戦線から撤退していたのである。

失敗しない人生には
何の意味もない

 失敗のない人生は崩壊した人生である。失敗は、意味ある人生を送るための必要条件である。

 ペーパー・ドライバーという言葉がある。優良運転者として表彰されるかもしれないが、免許を持っている意味はない。同じことで失敗しない人生というものがもしあるとしても、その人生には何の意味もない。

 私はアメリカの刑務所の中で、囚人たちに「何を一番怖れるか?」と聞く調査をしたことがある。

 彼らはなんと言ったか。「最も怖れているのは、自分の人生が意味のない人生となることです」と答えた人が圧倒的に多かった。

 社会的に立派な存在になっても、そういう人の人生は心理的には刑務所にいる囚人の人生よりも無意味な人生かもしれない。

 意味のない人生。この恐ろしさは、死を前にすれば失敗の恐ろしさどころではない。

 どうしても失敗が嫌なら、すぐに死ぬしかない。

 少なくとも、心理的には「死ぬしかない」だろう。

 意味のある人生を生きたいと思っている以上、失敗は必ずある。失敗は生きている証でもある。

 アインシュタインは何も失敗をしない人は、何も新しいことを試みたことがない人であると言った(*注1)。

 失敗してもそこから何も学ばないときに、それを失敗と言う。

 イタリアのエルバ島には「ナポレオンはいずこにありても幸せなり」という文字が残されているという。