B夫人は腎臓癌を患い、癌はすでに骨と肺に転移している。主治医には、夫がアルコール依存症で暴力をふるうといつも愚痴を言っている。20代の娘は2人とも長年訪ねてくることもなく、それにも苦しんでいる。診察のたびにあまりに辛そうな様子を見て、医師も苦しくなり、ある日の診察後に言ってみる。「あなたの癌は末期だし、家族もそういう状態なら、安楽死も悪くないかもしれませんね」。患者がいきなり泣き始めたので、医師はまずいことを言ってしまったと気付く。
ミスVは3回目の自殺未遂の後で精神科救命救急部にやってきた。結婚が破綻してから2年間、慢性的なうつ病を患っている。看護師が尋ねる。「ご存じです?安楽死の申請ができますけど」。患者は驚いた顔になり、詳しく知りたいと言う。患者が精神科受診の手続きを待っている間に、看護師が申請のための情報を渡した。
『Euthanasia』の第1章「すべり坂症候群(*2)」の著者で、緩和ケアチームで長く働き、緩和ケアの教育にも携わってきた看護師、エリック・フェルメールは、こうした医療現場の実態を「安楽死の些末化(trivialization)」と呼ぶ。trivial は「些細な・些末な」という意味。合法化され、安楽死者が増え、対象者が拡大し、要件もじわじわと緩和されていくにつれ、安楽死は日常的なことと化していく。
すべり坂=いったん合法化されれば対象者が歯止めなく広がっていくこと
医療現場で偽装される安楽死
異を唱える職員にかかる同調圧力
安楽死が緩和ケアと混同されて日常化されてしまった現場では、さらに安楽死を「偽装」する形で――つまり医師の勝手な判断でモルヒネの量を増やし――患者を死なせる行為までがなされている。医師が「モルヒネ・シャンパンで行こう!」とジョーク交じりに安楽死の偽装を簡単に決めてしまう文化が浸透した現場では、それに抵抗したり異を唱えたりする職員には同僚からの同調圧力がかかり、非難が集まる。
『Euthanasia』では、致死薬の投与だけを目的とした点滴を入れることを拒否したために同僚医療職からの圧力に晒され、職場を変わらざるを得なかった看護師や、集中治療室の医師から点滴で多量のモルヒネを入れるよう指示されて疑問を覚えた看護師が看護師長に抗議したところ、「できないというなら、あなたはこの病棟にはいらない」と言われた事例などが紹介されている。