幕末の赤穂藩では、尊王攘夷を掲げる「赤穂志士」たちが高官を斬殺した。不憫なのは被害者の一族である。対立していた勢力が藩の実権を握ったことで、斬られた村上真輔は、「不忠不義」のレッテルを貼られ、遺された息子たちは藩の監視下に置かれた。復讐の心を燃やしつつ時期を待ち続けた村上兄弟が立ち上がったのは、幕府が倒れて維新がなった明治3年のことだった。※本稿は、濱田浩一郎『仇討ちはいかに禁止されたか? 「日本最後の仇討ち」の実像』(星海社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
被害者・村上真輔に落ち度はないと
言いつつ加害者を許した赤穂藩
明治3年(1870年)11月22日、村上直内(暗殺された赤穂藩の参政・村上真輔の長男。父の仇を討つべく奔走する)が病死する。46歳であった。父・真輔を殺害した者の裁きや末路を見ずに、病に倒れたことは無念であったろう。翌年(1871年)正月、津田蔀(真輔の甥であり、女婿)の邸へ赤穂藩庁から、切り紙が届く。村上一族を従え、1月12日に出頭せよとの命令書であった。当日、出頭すると、藩からは、文書に拠り、次のようなお達しがあった。
まず「故 村上直内へ」として。父・村上真輔が先年、横死したことを憐れに思し召され、格別の処置をもって、家督を相続させ、知行70石を下されたとする。「別段」には、藩制の改革により、禄制が改まったので「上士族定制、現米30俵」を下賜すると記される。加増の上、家督は直内の長男・村上璋太郎に相続させるということだ。更に、真輔の横死について取り調べたところ、それは「全く一時の不幸に相違なく」、よって、真輔を「雪冤無罪」とするので、子弟一同はこの旨をよく承知せよとの文章が続く。
この件については、年来の成行を既に「天朝」(朝廷)に仰せ達せられた上で「御沙汰」になったことであるので、今後は遺恨を持ってはならないとの但し書きもあった。要は、村上家の家督も継承させる、亡き真輔も無罪とするから、今後は遺恨を保ち、下手人に危害を加えてはならないと、赤穂藩は村上一族に伝達したのである。
同日、六士(村上真輔暗殺団13人のうち、この時点で存命の6人)にも、次のような、藩からのお達しがあった。
「先年、憂国悲憤の余り、濫りに刑典を犯し、殺戮の暴挙に及んだこと、また謂れなく脱藩越境したことは、順逆を誤り、軽挙の過失である。しかし、朝廷からの至仁の御趣意に基付き、寛典をもって、復籍を申し付ける。格禄も下し置かれる。今般、藩制の御改革により、家禄は減少している。よって、森家御先祖の廟所に行き届かぬことがあるかもしれない。紀州高野山の釈迦文院にある御廟所の守護を勤めよ。一人半扶持を支給する」
森家の墓守を、一人半扶持与えるから行えというのである。六士もまた温情により無罪となったのだ。六士を高野山に派遣するのは、そのまま、村上一族と共に赤穂に置いておけば、不測の事態になりかねないからだった。遠方の高野山、殺生禁断の浄域に六士を入れてしまえば、村上一族による仇討ちはもはや不可能との、赤穂藩の思惑があったのである。