松下村塾で数々の門下生を育てた幕末の志士・吉田松陰。その生涯は30歳にも満たない短さで、亡くなった理由は「斬首」によるものです。死罪に処された一因は「老中暗殺計画」が幕府に露見したことですが、その計画はなぜあっさりと発覚してしまったのでしょうか。松陰の遺書というべき著作『留魂録』や「辞世の句」につづられた、この世を去る前の心境とあわせて解説します。(歴史学者 濱田浩一郎)
一度は死罪を免れた吉田松陰が
江戸で斬首された理由とは
長州藩の松下村塾で、明治維新の担い手となる数多くの人材を育成した吉田松陰(1830〜1859)。彼の生涯は30年にも満たない短いものでした。
安政6年(1859年)5月、松陰は故郷(現在の山口県萩市)での幽囚生活の果てに江戸送りとなり、評定所で取り調べを受けることになりました。当初は同じく萩にある「野山獄」と呼ばれる獄屋敷に入っていた松陰でしたが、その後は生家での禁錮を命じられていました。
野山獄に投じられたそもそもの理由は、ペリー提督が率いて来日したアメリカ艦隊に乗り込み、米国への密航を企てた罪によります。
幕府による厳格な鎖国政策によって海外への渡航が禁じられる中、松陰は日本を発展させるためには西洋文明を学ぶべきだと考え、ひっそり渡米しようと試みたのでした。
松陰は嘉永7年(1854年)に密航を試みたものの、あえなく発覚。鎖国下の日本では、密航の企てが厳罰の対象になっていた中、死罪こそ免れましたが、同年に投獄されることになりました。
翌・安政2年(1855年)に出牢を許され、生家に幽閉された松陰は、安政4年(1857年)ごろから近隣の子弟を集めて教えを講じるようになります。この松下村塾は松陰の叔父・玉木文之進が始めたものでしたが、やがて松陰が主宰者となりました。
しかし冒頭の通り、松陰はそこからわずか2年後に江戸に送られ、首をはねられてしまうのです。死罪に処された一因は、水面下で練っていた「老中暗殺計画」が幕府に露見したことです。
一度は死罪を免れ、長州で後進の育成に励んでいた松陰ですが、この計画はなぜあっさりと発覚してしまったのでしょうか。