下手人の処罰をしなかった時点で
村上一族による仇討ちは不可避に

 赤穂藩は、村上真輔の冤罪を村上一族に申し渡したことによって、村上一族の下手人への復讐心を鎮めようとしたが、そのことはかえって復讐の実行を決定的にした。村上四郎(村上真輔の四男)も、赤穂藩が六士を紀州高野山に派遣することは「全く、我々兄弟の復讎を避けさせるの手段に相違ない」(『史談会速記録』幕末維新に直面した志士など生存者の談話をまとめるために設立された史談会で語られた話を記録した本。全45巻、以下、『速記録』と略す)と理解していた。そして、父・真輔が晴れて無罪となったからには「一日も彼れと(筆者註=下手人六士)共に天を戴くべき理由は無い」との決意を固めたのだ。

 赤穂藩が、村上一族の仇討ちを回避する手段はただ一つ。村上真輔の冤罪を明らかにした時点で、下手人六士に重刑を科すことであった。藩は機を逸したのである。復讐の決心をいよいよ固めた時の心情を、村上四郎は、かつて大石内蔵助ら四十七士が、吉良上野介に復讐を決心した際の事情と重ね合わせている。

 内蔵助は、亡き主君・浅野内匠頭の弟・浅野大学を立てての御家再興を願っていた。

 が、元禄15年(1702年)7月、大学は広島の浅野本家にお預けとなり、御家再興の道は断たれた。村上四郎(村上真輔の四男)は、これが四十七士に「復讎の決心を固めた」とし、自分たちも「父の雪冤無罪ということになりましたと同時にいよいよ復仇の決心を固め」(『速記録』)たというのである。

 問題は、いかにして仇を討つかである。高野山金剛峯寺は、平安時代初期の僧・弘法大師空海(774~835)が開創した真言密教の聖地。高野山は、禽獣の殺生でさえ禁じられている浄域だ。金剛峯寺の程近くにある釈迦文院は、真言宗の僧・祈親上人(958~1047)が開基であり、江戸時代においては、岡山津山城主や、赤穂藩主・森家の菩提所として庇護を受けてきた。釈迦文院に下手人六士が入ってしまえば、仇討ちは不可能となってしまう。よって「其の途中を遮って望みを果」(『速記録』)すことが肝要であった。

村上一族は仇討ち免状を
得ずに敵のあとを追った

 江戸時代、仇討ちを行うためには、事前に藩に届け出をして、藩主の許可を得る必要があった。仇討ち免状を頂き、やっと堂々と仇討ちを行うことができたわけだが、村上一族はどうであったのだろうか。