明治4年(1871年)2月24日、ちょうど六士が赤穂を発った日に、村上行蔵(村上真輔の五男)は赤穂藩に宛てて復讐届書を郵便にて出していた。そこには、次のような内容が書かれている。
行蔵ら村上兄弟が、倶に天を懐かざる「讐敵」を多年に亘り討たなかったのは、「御家を大切に」思っていたからである。しかしながら「父子の至情、天地の大倫」は廃止すること叶わず、これまで数回、赤穂藩に嘆願してきた。それがいかなるわけか情意通じず。9年の月日が虚しく過ぎ去っていった。どれほど遺憾に思ってきたことか。
そうしたところに、この度、亡父(村上真輔)の罪が晴れたとの君命を被り、有り難く思っている。行蔵、平生「多病」につき、養生のため、「播州兵庫表」に赴いたところ、仇の者が、紀州高野へ登るということを聞いた。「御法典」は大切であるが、倫理において棄てがたく、且つまた善悪も定まっている上は「讐敵」を捜索し、見つけ次第、討留るということを前以って言上しておく。
濱田浩一郎 著
何卒、「御仁量」をもって、村上兄弟の父子の情実を「御諒察」頂ければ、また「亡父兄迷霊」(父・真輔と兄・河原駱之輔の霊。河原家の養子に出た次兄・駱之輔は、赤穂藩の重役に就いたが、真輔暗殺後に復権した森続之丞によって自刃に追い込まれた)が「瞑目」する(安らかになる)ようにして頂ければ、兄弟はもちろん、一族の者まで「御仁恩」に感激するであろう。もとより「御典律」を冒したことは戦慄の至りであるが激切の至情を酌量してほしい。
以上が村上行蔵が赤穂藩に提出した復讐届書である。ちなみに復讐届書が「村上行蔵義展」の名で出されているのは、行蔵は五男ではあるが、村上家の名跡人だからである。
その内容から、仇討ち免状を藩から事前に頂戴していないことが分かろう。父・真輔の雪冤を感謝するとしつつも、度重なる嘆願を無視した藩への恨み節ともとれる文言もある。これまでに溜まっていた藩への想いを、正直に書いたと言えよう。
つまり、村上兄弟は、赤穂藩の許可を得ず、出立前に申請すらせずに旅立ったのである。兄弟からすれば、これまでの状況から、仇討ちを赤穂藩が許可することなどあり得ないと考えていただろう。事前に仇討ちを藩に申請すれば、かえってややこしいことになり、仇討ち計画は頓挫するとも考えたはずだ。