平野悠 著
平野 GSの流行から始まって、はっぴいえんどが出てくるちゃんとした理由があったんだね。
牧村 はい。そして、1970年8月に通称・ゆでめんと呼ばれるファースト・アルバム『はっぴいえんど』、1971年11月にセカンド・アルバム『風街ろまん』という名盤が発表されるのですが、ちょうどその頃、日本語ロック論争というものが巻き起こるんです。中村とうようさんが編集長だった『ニューミュージック・マガジン』(現・『ミュージック・マガジン』)で繰り広げられた、内田裕也、大滝詠一、松本隆らによる「日本語はロックのメロディに乗らない」「ロックも、自分たちの言語でやらなければ意味がない」という論争です。
その前年に『ニューミュージック・マガジン』で日本のロック賞の上位にランクされたのが、主にはっぴいえんどを始めとする日本語で歌うアーティストだったんですね。それで、英語でロックをやるべきと主張する内田裕也が「なんではっぴいえんどみたいにヘタなグループが1位になれるんだ!? こんなレコードのどこが良いんだ?」と噛み付いた。
平野 裕也さんも元はナベプロ所属(現・ワタナベエンターテインメント)で、つまり芸能寄りだった。
牧村 そう、GSブームを牽引したタイガースをスカウトしたのも裕也さんだったし、ここでもやはり芸能と脱芸能という対比構造に繋がるわけです。裕也さんにしてみれば、ジョー山中や麻生レミといった実力派シンガーを揃えたフラワー・トラヴェリン・バンドというバンドをプロデュースして、ロックの世界へ打って出るというときに、日本語のロックが評価されるなんて! という思いもあったんでしょうけど。
でもその論争があって日本語によるオリジナルのロックを体現するバンドとして、はっぴいえんどが後に影響を与えるグループになったのは確かですね。そしてライブハウス「ロフト」が烏山に生まれたのは、そんなふうに今では当たり前である日本語のロックがまだ確立されていない時代、脱芸能で音楽をやることが保証されていなかった時代であることを念頭に置かなければなりません。