ロックは英語で歌うべき?内田裕也vsはっぴいえんど「日本語ロック論争」が音楽史を変えた写真はイメージです Photo:PIXTA

伝説のライブハウス・新宿ロフトの創設者である平野悠と、山下達郎や大貫妙子、フリッパーズ・ギターなどを世に送り出した音楽プロデューサーの牧村憲一が対談。旧知の仲である2人が「ロフト」が生まれた頃の音楽業界を総括する。本稿は、平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社)の一部を抜粋・編集したものです。

ロフトの第1号店が生まれた
1971年はフォーク全盛期

 ―まず、ライブハウス「ロフト」が生まれた時代背景からお二人に語っていただきたいのですが。

平野 僕が千歳烏山のはずれにロフトの第1号店をオープンさせたのが、1971年3月。牧村さんはすでに音楽業界に身を投じていたよね?

牧村 僕がこの業界に飛び込んだのは、日本のフォークソングが話題になった頃です。その象徴的なのがザ・フォーク・クルセダーズで、まだ早稲田の学生の頃、なんでもやろう会っていうのに入っていて……。

平野 よく話に出るグリークラブとは別のサークル?

牧村 そうです。たとえば「今日は山手線を徒歩で1周しよう」なんて結構バカバカしいことをやるんです。高田馬場から目白方向に行くのと、大久保方面に歩いていくのとグループが二手に分かれて、どこかですれ違うというような。夜の10時くらいから出発して、朝に合流しようっていうときに、僕は手持ち無沙汰だなと思ってラジオを持って家を出た。そのラジオを聴いていたら「帰って来たヨッパライ」が流れてきたんです。ニッポン放送だったと思うんですけど。

平野 それは何年頃ですか?

牧村 レコードの発売が1967年の暮れだったので、1968年だったんじゃないかな。「ヘンな曲だなあ」と思ったけど、すごくインパクトがあった。当時、僕は朝日新聞の企画部でイベントがあるときに呼ばれてバイトをしていたんですが、そこに在籍する五十嵐さんに呼び出されてこう聞かれたんです。「もしかして大学を出たら朝日新聞に入りたいの?」って。正直なところ、入りたいとも思っていなかったし、自分の成績じゃとてもじゃないが無理だなというのもあったので「半々ですね」と答えたら、「あなた、ザ・フォーク・クルセダーズって知ってる?」と。「あなたと同じ歳の子たちがとんでもないことを始めてるよ。こんなところでバイトしているより、ああいう世界に行ったほうがいいよ」と言われたんです。それから間もないある日、グリークラブの先輩だった三浦さんに声を掛けられて。