臓物を投げても局部を出してもOK…無法地帯のパンクライブを「新宿ロフト」創設者が面白がったワケ写真はイメージです Photo:PIXTA

伝説のライブハウス・新宿ロフトの創設者・平野悠人と山下達郎やフリッパーズ・ギターを世に送り出した音楽プロデューサー・牧村憲一が対談。80年代に新宿ロフトを中心に起こったパンクロック全盛期を語り尽くす。本稿は、平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社)の一部を抜粋・編集したものです。

シティポップ系から
パンク、ニュー・ウェイブの時代へ

牧村 1976、77、78年というのは新宿ロフトが成り立っていく揺籃期だったわけですが、その後、悠さんが懸命にフォローしていたミュージシャンたちがロフトに出なくなってしまう時代が来るんですね。

平野 それはライブハウスの宿命とも言えるし、市民権を得たニューミュージックと呼ばれる連中が公会堂とかでホールコンサートをやれるようになったのが大きいよね。それはしょうがない。

牧村 ホールでやったらプラスアルファ、世話になったライブハウスで1日だけやるという発想もあったのにと、今だったら考えられますけどね。ツアーをやる前にゲネプロとしてライブハウスを使わせてもらうとか。まあ、当時はそういうことを考えるゆとりがなかったんでしょう。ホールに行ける、ステップアップできるってことでみんな頭がいっぱいで。実際、僕もロフトとの関わり合いはこの辺りで終わるんです。

平野 それもあって、ロフトはその後、パンクやニュー・ウェイブへ舵を切ることになるわけだけど。僕はいろいろと悩んでて、突然パンクと出会うことになる。

牧村 パンクと出会ったときの話、聞かせてくださいよ。

平野 簡単な話ですよ。1979年だったかな。あの時代の東京は、夏と言えばみんな地方へ出かけちゃって人がいなかった。だからライブハウスにとって夏はブッキングの埋まらない季節だったんです。ちょうどその頃、S-KENのマネージャーをやっていた建築家の清水寛、写真家の地引雄一が僕を訪ねてきて、パンクの祭典をやりたいからロフトを1週間貸してほしいと。

 その時代のパンクはどのライブハウスからも敬遠されていたわけ。機材を故意に壊すわ、ケンカは絶えないわ、客がダイブして怪我人が出るわ、ロクなことが起きなかった。でも僕はそういうのを面白がるタイプだし、夏場はどうせ企画が埋まらないんだから好きにやっていいよと答えた。それが『DRIVE TO 80’s』という、東京ロッカーズ系のパンクやニュー・ウェイブ、テクノポップに至るまで気鋭のバンドが全国から集まったイベント。これが当時のロフトの動員記録を塗り替えるほどの大入りでね。