サザン・坂本龍一・山下達郎らを輩出…「新宿ロフト」創設者が今だから明かす不遜、唖然、嘆き写真はイメージです Photo:PIXTA

1976年10月にオープンし、数々の伝説を作った新宿ロフト。日本のロックおよびフォーク界のスーパースターを育てた「聖地」の創設者である著者が時代の息吹と熱狂を回顧。アーティストたちの素顔や音楽業界の生々しい実情を赤裸々に描く。本稿は、平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社)の一部を抜粋・編集したものです。

千歳烏山のジャズスナックが
「ロフト」第1号店

 1971年春、私は26歳。当時、私には妻と子どもがいた。さらにはかつての政治の季節の時代、全共闘運動で複数回逮捕されていたので就職もままならなかった。まだ怖いもの知らずの青春の真っ只中、私は特に落ち込むこともなく意気軒昂だったが、これから家族を養うための生活を考えなければならない苦境にいたのだ。そこで私は手持ちの数十枚のレコードをもとに、京王線の千歳烏山にジャズスナックを開店させた。

 ロフトとは屋根裏部屋のことで、当時、ニューヨークの芸術家の卵たちがソーホー地区を中心に屋根裏部屋をシェアして安く借りていた。その共同の作業場を「ロフト」と呼んでいたことから命名したのだ。

 店の近所に音大や芝居の稽古場があり、東京藝大大学院に通っていた坂本龍一さんは、女子音大生のレポートを1杯の水割りと交換にスラスラと書き上げて人気があった。

 ロフト2軒目の店は、1973年6月にオープンしたフォーク系を中心としたライブハウス、西荻窪ロフトだった。中央線・西荻窪の北口商店街の一角にあり、広さは15坪。まだライヴハウスという言葉すらなかった時代、そのオープンはジャズ系以外の日本のフォーク/ロックのミュージシャンにとっては画期的な出来事だったようだ。自由に歌え、演奏できる空間の誕生に、新進気鋭のミュージシャンの誰もが喜んでくれたのだ。

 この西荻窪ロフトは、浅川マキ、頭脳警察、山下洋輔、友部正人、ディランII、坂本龍一、南正人など、各ジャンルのミュージシャンに演奏の場を提供。以降、浜田省吾、ALFIE(アルフィー)、山崎ハコ、森田童子、南佳孝などのニューミュージック・シーンを代表する人々の常演する場所となっていった。

80年代バンド・ブームの
総本山となった新宿ロフト

 1975年12月、小田急線・下北沢にオープンした40坪のライブハウス、下北沢ロフトは、独自の文化圏・下北沢でロック文化を隆盛させた。サザンオールスターズ、上田正樹、憂歌団、子供ばんど、泉谷しげる、金子マリ、大橋純子、中島みゆき、ソー・バッド・レビューなどが出演したほか、関西のブルース系ミュージシャンの拠点にもなった。また、タモリが東京初進出のライブを行なったのもこの下北沢ロフトだった。サザンオールスターズの毛ガニこと野沢秀行、元メンバーの大森隆志がアルバイトをしていたことでも知られる。