平野 三浦光紀。牧村さんの大恩人だね。
牧村 はい。三浦さんは当時すでにキングレコードに入社されていて、「牧村、暇ある? 今日これから神戸へ行くから一緒に行こう」と言われて。話を聞くと、ダボーズという神戸の学生たちのグループのレコードが放送禁止処分になり、それで謝りに行ったのです。ダボーズが出演していたのは神戸の国際会館。その日のコンサートゲストがザ・フォーク・クルセダーズでした。そこで初めて、「あのラジオで聴いたザ・フォーク・クルセダーズか!」と。それが後々、長い付き合いとなる加藤和彦との最初の出会いでした。
日本のフォークの伏線として
重要なのがグループ・サウンズ
平野 三浦さんがキングに入って、牧村さんは私設アシスタントみたいな仕事をしていたんでしょ?
牧村 三浦さんが小室等の担当ディレクターだったので、それがきっかけになって、小室さんと楽団六文銭のマネジメントを務めました。それまで日本のフォークというのは、ギターを弾きながら日本語の歌詞を乗せて、洋楽の真似をしているようなものだと思っていたんですが、小室さんのギター教本(『Peter Paul &Mary フォーク・ギター研究』)に則ってレコーディングしたら日本のフォークならではのギターの弾き方やパターンがいろいろとあることを知ったんですね。それが1970年頃の話なんですが、その伏線としても重要なのが、1967年から1969年にかけてのグループ・サウンズ(GS)です。
平野 スパイダース、ブルー・コメッツ、テンプターズ……といったバンドだね。
牧村 大手の芸能プロダクション主導で、ビートルズ、ローリング・ストーンズといった海外のロック・バンドに影響を受けた若い子たちを集めて、歌謡曲の作曲家たちにそれを意識した曲を書かせた。でもたとえばザ・ゴールデン・カップスみたいな例外的なバンドもいて、表向きは、主にテレビ番組ではヒットした曲をやるけど、ステージに出たらそういう曲は一切やらず、欧米の新しい楽曲を手に入れて演奏していました。
GSブームの末期である1968年登場したザ・フローラルという、宇野亞喜良が衣装やビジュアル、作詞を担当したグループがいて、そのリードボーカルが小坂忠。けれどGSのアイドル路線に嫌気がさして本格的なロック・バンドへ進むべく舵を切った。メンバーも刷新して、ベースは細野晴臣、ドラムは松本隆、バンドは1969年4月にエイプリル・フールを名乗るようになるわけです。