平野 なるほど。それがのちのはっぴいえんどに繋がると。
牧村 ただ、そのエイプリル・フールも短命に終わるんです。レコーディングを含めてわずか数カ月の活動で、メンバー間の方向性の違いでアルバムの発売と同時に解散してしまう。そこで小坂、細野、松本の3人は、新しいバンドをさらに作って、それまではアンチ芸能だったけれども、今度は芸能から完全に脱した音楽をやりたいということで、はっぴいえんどの構想を持つに至ったんですね。
“日本語ロック論争”の構図は
内田裕也VSはっぴいえんど
平野 アンチ芸能界というのが大きなポイントだったわけだ。
牧村 そうなんです。ただし、エイプリル・フールの後に3人が結成したヴァレンタイン・ブルーはすぐに頓挫してしまいます。1969年の暮れに渋谷東横劇場で初演が行なわれた『ヘアー』というロック・ミュージカルに小坂忠が出演することが決まってしまって。
しかし『ヘアー』のプロデューサーだった川添象郎(当時は川添象多郎)や主役の一人を務めた加橋かつみらが大麻取締法違反容疑で逮捕される事件が起きてしまった。そこで細野と松本は大滝詠一を誘った。その後、「リードギターがいないね」という話になり、高校生の鈴木茂に大学進学を諦めさせてバンドに呼び込んだ。と、メンバーが語っています。
平野 その頃の大滝さんは鳴かず飛ばずでしょ?
牧村 もちろん。当時の細野さんと松本さんはハコバンをやっていて、一晩に3回くらい演奏すると5万円ほどの月収があったそうです。1970年当時の大卒初任給がおよそ4万円弱(現代の価値に換算すると14万円強)なのでかなり良い収入だったけど、大滝さんは岩手から出てきて、東京で就職したんです。
その後、早稲田の第二文学部に進むんだけど、音楽への道が諦められず、いろんな音楽家たちとの交流の中で細野さんや松本さんと知り合い、ヴァレンタイン・ブルーへ参加しました。はっぴいえんどになったとき、今でいうインディーズというか、芸能界の影はなくなっていたんですが。