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毎日新聞出身のジャーナリストである筆者は、「野党は批判ばかり」「対案を出せ」という立憲民主党批判に、民主主義の危機を覚えている。政界では今、意図的に「対立軸が明確な2大政党が、選挙で政権を争う政治」の構図を作らせまいとするかのような言説があふれているという。※本稿は、尾中香尚里『野党第1党――「保守2大政党」に抗した30年』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。

万年与党と万年野党の時代の再来?
「民主主義に疲れた」と嘆くばかりで良いのか

 最近、個人的にとても引っかかっている言葉があります。「ネオ55年体制」というものです。つまり「新しい55年体制の到来」。現在の日本の政界を「再び万年与党と万年野党の時代が始まった」と分析しているわけです。

 立憲民主党が2021年衆院選で公示前議席を割り込んだ直後に、境家史郎・東京大学教授(政治学)が朝日新聞に、この言葉を使ったコメントを寄せていました。

「2大政党がしのぎを削る状態に進んでいるのではなく、『ネオ55年体制』と呼ぶべき政治状況が続いている」
「小泉政権期の『改革疲れ』と民主党政権の挫折によって、改革競争は政治の焦点から外れ」
「代わりに浮上したのは、防衛政策や憲法改正といったイデオロギー的争点」
「この対立軸上で自民党と社会党が対峙したのが55年体制期で、その意味からも、日本政治は『改革の時代』を経て、『ネオ55年体制』とも言うべき局面に入ったと言えると思います」

 確かに選挙結果、特に「政党の議席数の比較」だけを見ていると、現在の日本の政治が「このように見える」ことを、全く理解しないわけでもありません。しかし、例えば直近の2021年衆院選でさえ「自民圧勝、立憲惨敗、維新躍進」との評価に、かなりのゆがみがあることが分かります。

 にもかかわらず「ネオ55年体制」といった言説が急に台頭していることに、私は強い違和感を覚えます。そこには「古い政治への郷愁」「新しい政治への諦め」といった響きを、強く感じざるを得ないからです。

「ネオ55年体制」という言葉自体に、何らかの政治的意図があるとは考えません。しかし、自民党やそれに近い勢力が「ネオ55年体制」という言葉をイメージする時には、そこに一種の希望的観測が入っているでしょう。「再び55年体制のような政治に戻りたい。野党は自民党の永久政権のもと、政府に適度に反対して存在感を出す程度にとどまっていてくれればいい」というわけです。野党やその支持勢力のごく一部のなかにさえ、同様の考えが巣くっているかもしれません。「政権を取るなんて無謀なことは考えず、ただ与党を批判してこぶしを振り上げている方が楽ではないのか」と。