安倍晋三元総理が、何度も口にし続けた「悪夢の民主党政権」。当時の民主党幹部の多くが集う立憲民主党を批判する文脈で、現在でもしばしば使われている言葉だ。2009年からのわずか3年にすぎない政権運営が、10年以上経っても攻撃材料にされてしまうのはなぜなのか。本稿は、尾中香尚里『野党第1党――「保守2大政党」に抗した30年』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。
小沢一郎が目指していたのは
「保守2大政党制」だった
小沢一郎代表のもとで、民主党は党再生の足掛かりをつかみました。
小沢氏が就任した翌年の2007年夏、民主党は小沢氏の代表就任後初めての大型国政選挙となる参院選を迎えました。自民党は、小泉純一郎首相が「党総裁としての任期満了」を理由に首相を辞任。その後継として安倍晋三氏が首相となっていましたが、閣僚の相次ぐ不祥事などで内閣支持率は低迷していました。
小沢民主党は参院選で安倍自民党を惨敗させ、参院は再び、与野党が逆転する「ねじれ国会」となりました。安倍氏はその直後の秋の臨時国会で、開会した途端に辞意を表明。続く福田康夫首相も1年の短命に終わり、後を受けた麻生太郎首相も、就任直後に見舞われたリーマン・ショックを受けて、早々に追い込まれました。
衆院議員が任期満了となる2009年を迎え、政権交代が現実味を帯びる中、民主党も激震に襲われました。小沢氏が、自らの政治資金団体をめぐる事件に絡んで秘書が逮捕・起訴された事件(いわゆる「陸山会事件」)を機に、代表を辞任する事態に見舞われたのです。後任を選ぶ党代表選で、岡田克也氏を破り代表の座についたのが、鳩山由紀夫氏でした。この年の5月のことでした。
小沢氏周りの事件で陰りが見えかけた民主党への支持は、一気に復調しました。
鳩山氏の就任から約2カ月後の同年7月。麻生首相は、追い込まれる形で衆院を解散しました。8月の衆院選で民主党は308議席という圧倒的な議席を獲得し、自民党から政権を奪取。翌9月、鳩山政権が発足したのです。
しかし、鳩山政権の誕生は「政権交代可能な保守2大政党制」の旗を振ってきた勢力には、おそらく逆の意味の、つまりは悪い意味での衝撃を与えたように思います。
ひと言で言えば「なぜ鳩山首相なのか」ということでしょう。
民主党はもともと、衆院選に小選挙区制度が導入された1996年、自民党・新進党の「保守2大政党」に抗い、民主リベラル勢力の一翼を担うべく結党された政党です。その時に菅直人氏と並んで初代代表を務めたのが鳩山氏でした。2人は政界において「リベラル派のリーダー」と位置づけられてきました。誤解を恐れずに言えば、2人は「保守2大政党」を求めてきた勢力にとって、たぶん「目障りな存在」だったのです。