錦織圭、マリア・シャラポワ、大坂なおみ、ネリー・コルダ……指導した数々の選手を世界トップレベルに導いてきたトレーナー界のカリスマ、中村豊。彼に指導を受けた選手たちは、アスリートとして大幅なステップアップを遂げています。
中村はトレーニングによってのみ身体能力が向上するわけではなく、必要なのは「トレーニング」「リカバリー」「栄養」の3つのメソッドだと語ります。そして、この3つを適切に行えば、一般の人でも身心が健全に整い、若さを持続できると主張するのです。その実践方法を分かりやすく具体的にまとめたのが、中村の初著書『世界最高のフィジカル・マネジメント』です。本連載では同書から「世界トップの選手に対する指導法」や「そこから導き出した誰もが健全な身心を獲得できるメソッド」をお伝えしていきます。
中村トレーナーが所属するIMGアカデミーには、最先端の設備と優秀な指導者を求め、世界中からアスリートが訪れます。そこで知り合ったテニス界の女王マリア・シャラポワと信頼関係を築くうちに、中村は専属トレーナーの依頼を受けることになります。シャラポワは、ある大きな悩みを抱えていたのです……。
ハイスペックなスポーツ施設
IMGアカデミーとは?
IMGアカデミーには常にトップアスリートが在籍していたので、日々非常に刺激的でした。アカデミーの創設者ニック・ボロテリーは、テニスに魅了されてアカデミーを始めたのですが、コートでの練習だけでは不充分だという考えを持っていました。プレー以外のトレーニングやメンタルタフネス、今では当たり前になっている、こういったプログラムをいち早く取り入れたのです。
スポーツ心理学の権威ジム・レーヤーをアカデミーに迎えたり、僕の恩師パット・エチェベリといったトレーニングの専門家をチームに加えたり、素晴らしいアスリートを育成するためには何が必要か、常にフレキシブルに考えることができる指導者でした。スポーツは技術だけでなく、トレーニングやメンタルも非常に重要である、という彼の理念が僕の根底に植え付けられていると思います。
IMGにはその評判を聞きつけ、トミー・ハース、マリー・ピアースといったテニス界のトップ選手達がトレーニングに訪れるようになりました。彼ら一流選手達を指導し交流できたことが今の自分を作っています。トップアスリートは常人とは明らかに能力が異なります。これくらいの敏捷性があるから、このレベルのトレーニングはこなせるだろうと思ったら、それを上回る能力を見せつけてくるのです。まさに最高に贅沢な実験環境でした。
アカデミーではアメリカンフットボールや野球など、テニス以外のプレーヤーと交流を持てたことも貴重な経験です。特にアメフトの選手の運動能力は驚くほどハイレベルでした。僕がテニスプレーヤーに対して、テニスという競技を超えたトレーニングをさせたいと考えるようになったきっかけが彼らの存在です。
マリア・シャラポワとの挑戦
マリア・シャラポワとの出会いもIMGでした。彼女はツアーの合間に数週間滞在し、その際のトレーニングを僕が担当していました。その関係から彼女が練習拠点にしているロサンジェルスでトレーニングを見て欲しいと呼ばれるようになり、彼女と過ごす時間が増えていきました。
僕は2010年から一旦IMGアカデミーを離れて、オーストラリアのテニス協会の仕事をしていたのですが、翌年アメリカに戻ってきたタイミングで、シャラポワから声をかけてもらったのです。
シャラポワはすでにテニス界の女王として君臨していましたが、4つのグランドスラム(全豪・全仏・全英・全米)タイトルの中で、全仏オープンだけ優勝がありませんでした。フランスのパリで行われる全仏オープンはクレーと呼ばれる土のコートで開催されます。クレーコートでのテニスは独特の技術が要求されます。シャラポワのプレースタイルはクレーコートにフィットしておらず、土のコート独特の身体の使い方や、砂の上をスライディングするフットワークを苦手としていました。
しかし、完璧主義の彼女は、どうしても全仏のタイトルを欲していたのです。シャラポワはフィジカルを鍛え直すこと、これが全仏制覇の鍵だと考え、専属トレーナーを求めていたのです。トップを極めても、アスリートとしての能力をさらに高めたいという強い気持ちを持つシャラポワとの仕事は刺激的でした。
女王に最後の栄冠をもたらした
体幹トレーニング
アスリートの専属トレーナーというのは非常に微妙な立場にあります。なぜなら指導者でありながら、雇い主は選手側であるためです。
強いプレーヤーというものは今自分は何をすべきか、現状を把握し、等身大の自分の姿を鏡の前で、くっきりと映し出せるものです。しかし、鏡の中には、見たい部分も見たくない部分も映ります。トレーナーの役割は鏡に映った選手像をより鮮明にし、その選手に今何が必要なのかを探り出すことです。能力を引き出し、隠れていた可能性や才能を見出すと共に、弱点もあぶり出さなければなりません。そのためには、言いにくいことを告げなければならない場面が必ず訪れるのです。試合に負けた時や、トレーニングが思い通りにいかない時に、どう対処すべきか、指導者として物事をハッキリ伝える覚悟が必要なのです。
クレーコートでのシャラポワの弱点は、長身で手足が長いため重心が高くなり動作が大きくなりがちで、小回りがききにくい部分です。そういったウィークポイントについて、僕は包み隠さずに彼女に告げました。
選手というものは成功した時のイメージを脳裏に刻み込みます。どのようなショットを多用したか、どんな戦略を立てたか、ウォーミングアップは何をしたか、試合前に何を食べたか……成功した時の全ての取り組みを徹底して確立させていくことで、「これをすれば勝てる」というルーティン、つまり勝利の方程式がアスリートの中にできあがるのです。
そのこだわりはトップ選手であるほど強く、シャラポワのようなナンバーワンを極めた選手ほど頑固で強固です。
僕はそのルーティンを築くと同時に壊していくのがトレーナーの役目だと考えています。選手は自分のやり方、成功体験に固執したくなります。しかし、スポーツというものは年々進化しているのです。そのために年に2~3割はトレーニング内容もアップグレードしていかなければなりません。トレーナーは最新情報を入手し、変化への対応を求められます。選手とトレーナーの立場の違いや距離感を適正に調節する、それこそがこの仕事の醍醐味と言えるかもしれません。
シャラポワのウィークポイントを克服するためには、ステップを広くして重心を低く、常に腰を落とす必要があります。重心を低く保つという動作は身体にとって非常にきつい状態です。アスリートにとっては辛い練習ですが、僕はゴムチューブを使って重心を低く保つトレーニングを徹底的に行いました。その反復により脚力が強化され、身体をうまく使えるようになり、効率性が生まれます。
また体幹をしっかり保つトレーニングにも時間をかけました。サービス、リターン、フォアハンド、バックハンド、どのプレーでも頭のてっぺんから脊柱、股関節にかけて真っ直ぐな状態で前後左右に自在に動けることを目指しました。
そして、自身の様々な努力と、トレーニングが実を結んで、2012年についにシャラポワは全仏オープンで頂点に立つこととなったのです。
(本原稿は中村豊『世界最高のフィジカル・マネジメント』から一部を抜粋・編集して掲載しています)