『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

「教養とビジネス」を対立させる人の雑な考え方【『独学大全』著者が指摘】Photo: Adobe Stock

[質問]
 SNSで、次のようなポストが流れてきました。

「教養というものが、専門性と対置されるものだとするならば、教養とは「できるだけ余計なことを考える」ためのもの、といえる。ある主張や立場を取ろうとしたとき、教養が僕らにためらいを与えてくれる。ある立場からはこう見える、しかしあの立場からするとそれは異なって見える。ためらいが生まれる。もし、ビジネスという営みが、速やかな意思決定をよしとするものだとするならば、ビジネスと教養はとても相性が悪い。なぜなら、先の定義が正しければ、教養が意思決定を邪魔するからだ。余計なことを考えてしまうから。だから僕はビジネスにおける教養ブームは都合の良い話に見える。」

 読書猿さんは「教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自信を解放するもの」と定義されています。

 読書猿さんは、ビジネスと教養の関係をどのように考えておられますか。

「ビジネスは教養と対立するもの」という考えは、一面的すぎると思います

[読書猿の回答]
 まずここで述べられているビジネスと意思決定の有り様は、あまりに一面的です。確かにビジネスにおいて意思決定は不可欠ですが、「速やか」であればいいものではありません。

 意思決定にどれくらいの時間をかけるのかは、決定の軽重によって様々です。意思決定が左右する損益の大きさと、そして関与する要素が多さと複雑さから来る意思決定自体の難しさは、個人が日常で接するものよりずっと大きいことが珍しくありません。

 そのため、多くの場合、重大な決定ほど、多くの選択肢が検討され、慎重に時間をかけて行われるでしょう。
 ビジネスの意思決定では、問題に応じて求められる精度は様々ですが、当然ながら「正しい」ことも必要だからです。

 論者は、ここで、ビジネスについてあまりしらないという立場を取っているようにも見えます。解像度の低いビジネス像はそのためだと言わんばかりに。であるならば、この主張は、ビジネスを「対岸のもの」として見たもの、自分をビジネスとは関わりのないところに置いたものだと、言えないでしょうか。

 しかし実際は、我々の多くは様々な形で何らかのビジネスに関わっています。ビジネスによって生活費を稼ぎ、誰かのビジネスの成果を消費して暮らしています。ビジネスは我々の人生の重大な部分です。

 ビジネスと教養を対置する立論は、人生と教養を対置する立論のように思えます。そして、自らを人生とは関わりのないところに置き、人生を「対岸のもの」として見るのであれば、そこに何の「ためらい」も生まれようがないと思います。

 この論者が、ビジネスの現場を「速やかさ」だけが尊ばれる、「ためらい」と教養を欠いた世界として描くように。

 人生において私達がためらうのは、教養なるものを身に着けたからではありません。人生が見通せないから、にもかからず時に意思決定せざるを得ないから、その帰結が私達にとって重大事であるからです。

 ためらいは、意思決定の反対ではなく、意思決定の過程であり、一部です。

 意思決定を回避した/から身を引いた観照者にできるのは、その人がどれだけの選択肢、どれだけの他なる立場を想像し得たとしても、できるのは「ためらい」ではなく、傍観に過ぎません。

 ご質問に上げられた教養の定義を、私は古代ギリシアのイソクラテスから借りました。
 彼はまた、厳密知と実践知の関係について、こう言っています。「機会(カイロス)に厳密知(エピステーメー)はいつも間に合わない」と。

 専門知は十分に用意されていない場面でも、時に私達は意思決定せざるを得ません。厳密に正しい保証がなくとも、つまり将来覆される可能性があるとしても、今できる限りの「まし」な決断をしようとする実践的な知を、アリストテレスは賢慮(プロネーシス)と呼びました。

 これこそが専門知と対置される教養の源泉であり、教養が寄って立つ知の営みです。

 自らの選択が間違っている可能性、いつか覆されるかもしれない可能性を受け入れ、それでも今此処の状況を引き受け、意思決定する役割を果たそうとする実践者の傍らに/伴に教養は立ち続けます。