『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』。この税込3000円超、788ページの分厚い1冊が、今爆発的に売れている。発売わずか1ヵ月半で7万部を突破し、書店店頭やネット書店でも売り切れが続出。ただ読むだけでなく、多くの人がSNSで「こんな風に学んでいます」「実践しています」と報告する、稀有な本だ。
興味深いのは、本書の著者が学者でも、ビジネス界の重鎮でもなく、インターネットから出てきた「一人の独学者」である点。著者の読書猿さんとは何者なのか? なぜこれほど博識なのか? そしてどんな思いから、この分厚い本は完成したのか? メディア初のロングインタビューで迫る。今回は、読書猿さんが考える「教養の定義」を聞いた。
(取材・構成/樺山美夏、イラスト/塩川いづみ)

なぜ、読書猿は研究者にならなかったのか

――大学では、哲学を学んだとお伺いしました。そのことが、「インターネットの知の巨人」といわれるほど博識になる入り口になったのでしょうか。

読書猿 正反対です。「哲学はやめて、あらゆる学問を独学することに決めた」という感じです。

 僕は飽きっぽくて、色々興味が移っていく、広がっていく性格なんです。大学選びの時も「文系も理系も関係なく、全部を学べるのはどこだろう」と考えて、哲学ならそれができるんじゃないかなと期待して学科を決めた。

 ところが当時、周りで哲学をやっていた人たちの多くは、哲学のことだけに興味をもっていた。もちろんそうじゃない人もいて、そういう人たちに仲良くしてもらったんですけど。大学の哲学科は「全部を学べる」にはほど遠い場所でした。偉そうにいうと、たくさんある専門分野の一つに過ぎなかった。そういう学問の事情も、当時は全然分かってなかったんです。

 ニュートンを研究している人が初歩的な物理学も怪しかったり、マルクスやってる人が経済学に興味なかったり。あと、自分の研究ではかなり良いものを書けるひとが、複雑系なんかが流行ると、過剰な期待をもったり。「いやいや、それ、おかしくないか」と。

 もちろん、誰だって時間も能力も有限なんで、一人の人間が全部できるわけないですよ。実際はラテン語を勉強して、ニュートンの『プリンキピア』をちゃんと読むだけでも大変です。さらに学術研究として世界でまだ誰も言ってないことを論文にするには、テーマを絞れるだけ絞り込んで、一点に全力を集中するしかない。結局、自分の期待が見当違いで、おまけに大きすぎた反動だと思いますが、心底がっかりしてしまったんです。

 そんなこんなで、他の学問の本ばっかり10冊くらい、いつも大きなカバンに詰め込んで大学に通学するようになりました。半分は一冊20分しか読めないんで、何冊も持ち歩いたんですけどね。それで先輩に「哲学科、やめてしまうの?」と聞かれたり。

 ただ、自分で自由に学ぶ内容を決められて、図書館で無限に調べものができる大学の環境は、僕にとっては天国でした。ああ、将来なりたいものとかずっとなかったけど、自分は大学生になりたかったんだなと、思ったくらいです。なので「大学に残る」という選択肢には強く惹かれるものがあったんですが。さっきの話で、自分はなんであれ、一点に全力を集中する「専門家」にはなれないだろうと思ったんです。それで結局、研究者にはならない決断をしました。

 それからですね、「しょうがないから独学するしかない」と思ったのは。そして、自分の興味が広がって中途半端になったままだった知識を、独学によって供養したいと思い始めました。

読書猿(どくしょざる)
ブログ「読書猿 Classic: between/beyond readers」主宰
「読書猿」を名乗っているが、幼い頃から読書が大の苦手で、本を読んでも集中が切れるまでに20分かからず、1冊を読み終えるのに5年くらいかかっていた。自分自身の苦手克服と学びの共有を兼ねて、1997年からインターネットでの発信(メルマガ)を開始。2008年にブログ「読書猿Classic」を開設。ギリシア時代の古典から最新の論文、個人のTwitterの投稿まで、先人たちが残してきたありとあらゆる知を「独学者の道具箱」「語学の道具箱」「探しものの道具箱」などカテゴリごとにまとめ、独自の視点で紹介し、人気を博す。現在も昼間はいち組織人として働きながら、朝夕の通勤時間と土日を利用して独学に励んでいる。『アイデア大全』『問題解決大全』(共にフォレスト出版)はロングセラーとなっており、主婦から学生、学者まで幅広い層から支持を得ている。本書は3冊目にして著者の真骨頂である「独学」をテーマにした主著。なお、「大全」のタイトルはトマス・アクィナスの『神学大全』(Summa Theologiae)のように、当該分野の知識全体を注釈し、総合的に組織した上で、初学者が学ぶことができる書物となることを願ってつけたもの。最新刊は『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』

教養とは、生まれや育ちから自身を解放するもの

――そんな苦悩があったんですね。

読書猿 哲学には、今でももちろん愛着はありますけどね。

 あと、そもそもの話、僕は「インターネットの知の巨人」って呼称、完全な蔑称だと思っています。自分が無名だから紹介しようがなくてみなさんを困らせているのは知ってますし、跳ね返して自分はこれこれのものだと確立した何かを示そうにも無力すぎるので、仕方がないと受け入れてはいますが。「教養がある=物知りな人」という勘違いをしている人が多過ぎる気がします。それは単なる「雑学」というか、「無知である自分」という劣等感の裏返し、ですよね。

――なるほど……。ビジネス書の棚には、「教養としての●●」「この一冊で教養が身に付く」というキャッチコピーの本があふれていますよね。それだけ、私も含め多くの人が求めているのだと思いますが、読書猿さんが考える「教養」とは何でしょうか?

読書猿 教養とは、いろいろな分野の知識を幅広く知っていることでも、美術作品や文学のウンチクを語れることでもありません。

 教養とは、「運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放するもの」であると、僕は考えています。僕らは生まれてくる時代や場所を、そして親の遺伝子や職業、経済状況、幼い頃に育つ環境を、自分で選ぶことはできません。でも、学ぶことによって、自らそれを変えることができます。学ぶことで、自由になれる。大げさにいうと、運命から人生を取りかえせる。

 自分で学ばず、自分で考えずに人の言うことだけ聞いていると、間違うことすらできませんよね。何となくしんどいな、不都合だな、疲れるなとか、「こんなはずじゃなかった」と思うことはあっても、今とは違う可能性を考えつかなければ、結局、運命として受け入れる他ない。
 逆に今とは違う可能性を考えることができた人は、その可能性を仮説として、自分の見込みが間違っているかどうか、少なくとも検証することができる。まあ大抵の場合、痛い目にあって思い知らされるんですが。でも、そこでようやく、人は本当の意味で考えること、そして学ぶことを始めるんです。世界は自分が今までぼんやりと思っていたようなものではなかったと思い知り、では本当はどうなんだと吐き出すように問うことができてはじめて、今までのような、自分の思い込みを強める素材をあれこれコレクションするのとは異なる、学びを始めることができる。

 それは多分、誰かが用意してくれた正解を押しいただくような勉強と違って、これさえやれば大丈夫っていう教材がある訳じゃないし、誰かがその成功を保証してくれる訳でもない。効率はとても悪いですよ。間違える確率も低くないし。
 でも、間違うことで、痛みを受けることと引き換えに、またひとつ思い込みを壊せる。そうした失敗の痛みが、次の学びの機会となり、ストックになっていく。逆説的な言い方ですけど、学んだ人はそれだけ間違う権利を得る。間違う権利は、学んだ人が手にする自由の中にあるんですよ。