将棋そのものだけではなく、この漫画は桐山零の異色の人生と、川本家三姉妹のこれまた波瀾万丈だけれども心温まる人生の物語を中心に回っていきます。キャラの立った棋士たちの人生譚もまた魅力となっています。

クリエイティブな技芸か
メシを食うための手段か

 ですが、人生の物語とはいえ、この漫画の登場人物たちはそれぞれにみな「労働」をしており、その労働のあり方をどう考えるのかは興味深い論点になるでしょう。

 まずは『3月のライオン』における労働は、一般読者には非常に縁遠い種類の労働に見えるでしょう。ここで言っているのはもちろん、零の棋士としての労働です。現代におけるプロ棋士とは、日本将棋連盟に所属して対局料などで生計を立てる、立派な労働者です。ですが普通、棋士のような人たちを労働者と呼ぶことにはためらいがあるでしょう。

 彼らは私たち常人とは別世界の天才たちであり、対局というのは労働などというものではなく、天才同士のクリエイティブな技芸だ、というのが普通の感覚でしょうし、多くの将棋漫画はそのようなイメージで将棋や棋士を描いています。

『3月のライオン』にもそのような部分がないわけではありません。零と同じく15歳でプロとなり、史上最年少の名人位を獲得した宗谷冬司(そうやとうじ)は、浮世離れした天才そのものです。

 ですがその一方で、この漫画は棋士という職業が、地を這って泥をすするような努力なしでは成り立たないことも強調します。それを象徴する人物は例えば、宗谷と同期だけれども彼とは水をあけられてしまっている島田開(しまだかい)八段でしょうか。持病の胃痛をかかえながらたゆまぬ努力をやめることのない島田の姿。将棋ということだけを見ると、かなりのスポ根的なものが、この漫画にはじつはあるといえるでしょう。

プロを目指す野球部員との
問答でプロ棋士が覚えた感動

 ですが、私がこの漫画での「棋士」という仕事が芸術的な天才のものではなく、それどころかそれとはまったく異質なものであると考えるのは、物語の本質に関わるもっと深い水準においてです。

 零はなぜ、高校に1年遅れで編入するのでしょうか?普通に考えれば、零が高校に編入したのは、若くしてプロ棋士になってしまってその機会を逸してしまった「普通の青春」を取り戻そうとしている、ということになるでしょう。私も最初はそう考えていました。早くから働いていたために欠如してしまった人間的な経験をやり直して、十全たる人間的な成長をなし遂げようということだろうと。