「養育費は要らないから……。あの子がそう言っているの。学費はバイトで稼ぐって。お金なんかいいから早く別れたほうがいいって。

 もう何年も前から考えていたの。あなたは馬鹿にしているでしょうけれど、生活のあてはもうある。2年前からパートで働いているの。資格も取った。正社員にならないかと言われているのよ。あの子ももう大学に入ったし、学費はバイトと奨学金で何とかするって言ってくれている……」

「俺はもう要らないってことか……」

「え?今さら何を言ってるのよ。あなたにとって、要らないのは私たちのほうでしょう。もう限界。いつもいつも見下されるのは耐えられない。お願い。もう別れてください」

会社の健康診断でがんが発覚
嘆く面談者がついにこぼした本音

「俺はショックだった。けれど、まだ本気では心配していなかった。どうせ帰ってくると思っていたから。心配よりも、腹が立っていた。会社から家に帰ると誰もいない、虚しさが襲ってくるが、すぐにこう思った。『あのバカのせいで』

 腹を立てていられたうちは良かった。しかし、それもできなくなった。会社の健康診断でがんが発覚。頭が混乱した。気がついたら家に帰っていた。が、やっぱり誰もいなかった」

「奥さんに、がんのことは話した?」

「言えるわけない。『おまえらが帰ってきても、俺には何の力もない、命もないかもしれない』なんて」

「奥さんがかわいそうだから?」

「さあね。分からない。とにかく言いたくないんだ」

「でも、僕には話した。なぜ?」

 少し考え込む様子。

「知らない人、だからかな。いや、それは変か。知らない人間に自分の立ち入った話をするなんて、俺らしくない危ないマネだ。どうかしているのかもしれない、今の俺は。どうかしているから話したんだろう。

 考えてみれば、仕事ができなくなったなんて、今までの俺なら口が腐っても言えやしない。恥だからね。でも、今は言えてしまう。どうせ死ぬんだから、と思っているからだろうよ」

 また沈黙が訪れる。やがて、森さんが言った。

「もう、以前の自分がどうだったのか、よく思い出せない、どんな気持ちで何を考えていたのか。別の人間になってしまったみたいだ。

 会社で特別扱いされてなけりゃいけないとか、仕事で一目置かれていたいとか、そんなことを考えていた気がするけれど、なんでそんなことが大事だったのか、分からなくなっている」

 先生は静かに言った。

「変わったんだね」

「そうかもしれない。それで困っている……、のかも」