ステージIの大腸がんが見つかった48歳男性が、「がん哲学外来」を訪問。そこで医師にある言葉を贈られ、「目の前の人が自分より大事」と気づいて絶望を脱した。孤独がつらくて苦しんでいる人には、どうしてあげればいいのか?答えは、「ただ、横にいるだけでいい」。本稿は、樋野興夫『もしも突然、がんを告知されたとしたら。』(東洋経済新報社)の一部を抜粋・編集したものです。
自分が死ぬかもしれないなんて
がんになって初めて考えた
もうずいぶん、沈黙が続いている。時計を確かめると、2人が何も言わなくなって、5分近くが経過していた。
この日、「がん哲学外来」の個人面談にやって来た男性の名前は井上満男さん、年齢は48歳で奥さんと10歳になる娘さんがいる。大手書店の営業職で課長を務めていて、半年前に会社の健診がきっかけで大腸がんが見つかる。まだステージIでの発見だった。
こうしたことを穏やかな口調で話した後、面談者である井上さんの言葉が途切れた。ホスト役である樋野先生も特に先を促すようなことはしない。さらに沈黙が続いても、先生は平然とコーヒーを飲んでいる。
井上さんは視線を少し下に落とし、両手で持った紅茶のカップを見つめている。温厚そうな開いた眉根は、今、困ったようにやや狭められていた。
面談が始まってほんの数分で、井上さんの温厚で少し気の小さな好人物らしい人柄がうかがえた。先ほどまで話していた間、笑いジワの刻まれた目尻とゆっくり動く視線が印象的な目は樋野先生を柔らかく見つめていたが、先生と視線が合うと照れたように下へとそれを外した。話す口調は静かで、ゆっくりと話す人らしかった。
他方、樋野先生の外貌については、好々爺という表現がぴったりと当てはまる。頭には白いものが目立ち、太い眉も半分白くてグレー、両眉の間はのんびりと開いて、八の字を描いて端が少し垂れ下がり気味なのは、サンタクロースの眉を思い起こさせる。意志の強そうな四角い顎だが、結ばれた口の両端がちょっと上がっていて、いつも笑っているようにも見える。
先生と井上さんはもちろん初対面だったが、面談のために彼が入ってきたときの先生の態度は、自室に友人や知り合いを迎えるときとさして変わらない、くつろいだ感じだった。
少し緊張していた井上さんが、先生のくつろいだ態度を見て安心した様子で、ここへ来たきっかけから、家族構成、病状まで、ごく自然な感じで話してくれたのだが、今は、言葉が途切れている。
ようやく井上さんが口を開いた。
「私は、がんになるまで、自分が死ぬかもしれないなんて、本気で考えたことがなかったんです」