俯いている森さん。先生はじっと見守っている。

 と、突然、森さんが顔を赤くして、叫ぶようにしゃべりだしたのである。

「こういうのはないはずだろう。こういう悲惨なのは、昔、子供の頃で全部終わりのはずだろう。なあ、そうじゃなかったって言うのかよ?

 他の奴がみんな持っているものを、俺だけが持っていなかった。話をしたり遊んだりする友達、いつも家にいて俺のことを心配したり励ましたりしてくれる母親、休日には遊びに連れて行ってくれたり俺の学校のことを尋ねたりする父親、おじさんとかおばさんとか、いとことかの親戚。そういうのが、俺には誰もいない。

 子供のころ不運だった分、大人になったら幸運がやって来る。だから、運の悪い奴が罹るがんとかそういう病気に、俺がなるわけがない。そう思っていた。違ったのか?」

 先生は黙って森さんを見守っている。

 10分近くが経過したとき、ふいに、森さんが口を開いた。

「寂しい」

 この声を聞いたとき、先生がこの日初めて、ニッコリと笑ったのだった。

「寂しい」という言葉を
口にできたことで孤独が癒える

 部屋に入って来たとき、森さんの心は闇の中、先生の言葉は届かない状態でした。

 多分、森さんは無意識のうちに、誰かの助けを求めて、がん哲学外来を訪れたのだと思います。

 混乱しているこの人には、まず、ひたすらに話を聞いてあげることが必要でした。寄り添うことが大切だったのです。

 この人はがんになる前から1人でした。ずっと孤立して生きてきたようです。

 ただ、そのことには、日常生活の忙しさに紛れて気が付かなかったのです。奥さんとはとっくに心が離れていたし、会社での立場によってかろうじて人間関係が保たれていたけれど、それも表面的な関係でしかありませんでした。

書影『もしも突然、がんを告知されたとしたら。』(東洋経済新報社)『もしも突然、がんを告知されたとしたら。』(東洋経済新報社)
樋野興夫 著

 ひとりぼっちの自覚がないまま、自分を救うストーリーを心の中に描いていて、それがかろうじて心を支えていたのだと思います。

 ところが、がんをきっかけに、自分の孤立を自覚せざるを得なくなったのでした。

 そして、ひとりぼっちである自分の本当の気持ちを自覚して、ようやく言うことのできた言葉が、「寂しい」でした。

 つまり、他の人の存在を必要としていることを、やっと、森さんは認めることができたのです。

 きっと、ここから彼の孤独を癒やす道が開けるはずです。