「祖父は会社の経営者で、そこで働く従業員がいて、子供もたくさんいました。従業員にも家族がいます。それらの人たちの生活を成り立たせ、子だくさんの一家を堂々と養っていた。それが男だというのが父の中であったと思います。でもそれを小説でやろうとするのは、なかなか厳しいものがあると思いますが」

 退社を願い出た吉村に次兄は困惑した。

 なぜなら吉村は会社で呉服や宝石の割賦販売を始め、事業が軌道に乗っていたからだ。その前に繊維関係の団体事務局に勤めていたときも、業務を発展させ、場末にあった事務所を新宿の厚生年金会館前のビルに移転させている。

 吉村には商才があったのだ。

 吉村を手放したくない次兄は、長い沈黙の末にこう言った。

〈「それではわかった。承認します。ただし、これから1年間、あんたが小説で収入を得られぬようだったら、必ず会社にもどる。いいね」〉(『私の文学漂流』新潮文庫)