数々の名作を世に送り出した作家夫婦の吉村昭と津村節子。吉村が兄の会社を辞め、1年の期限を設けて挑んだ作家生活には、厳しい現実と葛藤が潜んでいた。いざという時には筆を折る覚悟で執筆と向き合った吉村の情熱と、その裏にある家族への想いを、息子の司が語る。※本稿は、谷口桂子『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
会社勤めのかたわらで筆を執る
吉村昭の満たされぬ日々
太宰治賞を受賞して世に出る前に、吉村昭は当時タイに赴任していた津村節子の姉夫婦に手紙を送っていた。
その姉が90歳を過ぎて身辺整理を始め、吉村の手紙が津村のもとに渡った。吉村がそのような手紙を書き続けていたことを津村は知らなかった。
その中の1通では、会社勤めの2年間に、1作も小説が書けなかったことを告白している。
ところが実際は、書き下ろし長編小説『孤独な噴水』を刊行し、いくつかの商業雑誌に短編を発表していた。1作も書けなかったと記すほど、心理的に追い詰められていたのかもしれない。
小学生の頃、司は吉村から次のような話をきいた覚えがあった。
「通勤電車で坐れたときは、画板を取り出して、その上に原稿用紙をひろげて小説を書いている、と。子供心にその姿が異様に思えました。同級生が同じ電車に乗って、画板に向かっている父の姿を見かけることがないように、心から願った記憶があります」
夜遅くに会社から帰ると、吉村は電気スタンドにタオルをかけ、そばで眠る子供の顔に光線が届かないようにして夜中の2時まで書き続けた。朝は7時に起きて会社に向かった。
それだけの努力をしていたにもかかわらず、満足のいく状況はつくり出せていなかったのだ。