「負け方」が
意味を持った

 この行動を徳川方はどう見ていたのか。

 饒舌に家康の肉声を伝える『徳川実紀』だが、島津の撤退戦についてほとんど触れていない。しかし、島津勢の反撃で重傷を負った井伊直政は「このたびの退却戦は、見事であった(今度お退きなされ候始末比類なし)」と、島津を絶賛している。
 
 そして、いよいよ戦後処理が始まる。

 家康としては一つでも豊臣系の大名はつぶしたい。島津と同じく西軍に属しながら本戦に参戦しなかった長宗我部盛親は、土佐22万石を取り上げられた。同じく毛利家は120万石から30万石に。会津で兵を挙げた上杉家も120万石から30万石に減封されている。

 島津はどうであったか?結論から言えば、家康はこの後、島津家の本領を安堵している。島津家の本領安堵について、大きく3つの理由が挙げられよう。

 第一に、外交戦略。とにかく家康のペースに乗らない。土佐の長宗我部盛親は、家康から「替え地を与えてやるから上洛しろ」と言われ、素直に上洛した。が、上洛すると改易になり領地を取り上げられてしまった。

 島津家当主の家久は頑として上洛を拒んだ。行けばその生死は家康の心一つでどうにでもなる。島津は自分のペースでの外交交渉を行なっていった。

 第二は、防衛線の拡充である。交渉はする。しかし、守りも固める。島津は国境地帯で着々と軍備を整え、その様子が次々に近隣諸国から家康のもとに届いていた。「交渉が決裂したらいつでも戦うぞ」という強い決意は、外交を支える大きな柱となった。

 そして第三が「退き口」の島津勢のすさまじい戦いぶりである。わずか1500の兵で10万の敵を目の前にして正面突破を図った島津の強兵が、その10倍以上の兵力で南九州に待ち構えているのである。天下なお徳川のものとは言い難い状況下で「退き口」の記憶は家康の心を大いに圧迫していた。

 島津の「負け方」が、意味を持ったのである。