戦後の混乱期を一途に、毅然として生きた“ブギの女王”笠置シヅ子。スターとなった笠置の前に現れたのは、まだ世に出る前の“美空ひばり”だった。2人の間に存在したとされる確執、そして笠置が通達したという「ブギ禁止令」とは……?その真相を紐解いていく。※本稿は、砂古口早苗著『ブギの女王 笠置シヅ子: 心ズキズキワクワクああしんど』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。
“ブギの女王”と“天才少女”の出会い
笠置にとっての美空ひばりの存在とは
1948年10月、笠置シヅ子は横浜国際劇場の楽屋で1人の少女と出会った。少女はこの年の5月1日、劇場の開館1周年記念興行に出演した小唄勝太郎の前座で、笠置のヒット曲「セコハン娘」を歌って評判になり、7月には劇場の支配人・福島博(のちに通人と改める)に認められて劇場の準専属になった“豆歌手”だった。
福島はこの後、劇場を辞めて少女のマネジャーになり、“ベビー笠置”“豆笠置”というコピーをつけて、少女を熱心に売り込んだ。少女の本名は加藤和枝。戦後に父親の増吉が作ったというアマチュア楽団“美空楽団”で、9歳から美空和枝という名前で歌っていたが、ちょうどこの頃、芸名がつけられたばかりだった。美空ひばり(1937~89)である。
笠置は横浜国際の楽屋で、自分の持ち歌を自分以上に上手に歌ってみせるひばりを面白がり、楽屋で遊び相手をして可愛がった、というふうに伝えられている。おそらくその場は和やかな雰囲気だっただろう。“ベビー笠置”といったコピーにも笠置は寛容だったことがわかる。