AKD砲炸裂の裏にあった密約
森監督「打撃は修正させるな」

 翌1990年、西武は初めてハワイのマウイ島で春季キャンプを敢行。チームの空気を変えるためという首脳陣の思いのほかに、裏には西武グループ特有の事情もあった。

 当時、マウイ島では西武グループが「マケナリゾート」を開発しており、マウイプリンスホテルが建っていた。西武がキャンプを張れば、マスコミは連日宿舎であるホテル名を出す。このキャンプはホテルの宣伝も兼ねていたのだ。

「島には球場がないから、近くの高校のグラウンドを午前中だけ借りるんです。そこからホテル横に移動し、ネットに向かってひたすらティーバッティングをさせました。清原には1日700球ほど打たせました。その年からコーチを務めた片平晋作はトスを上げすぎて、肘を腫らしていましたよ」

広野の指導を仰ぐ清原、鈴木健ら写真提供:広野功
広野の指導を仰ぐ清原、鈴木健ら清原、鈴木健(中央下)らが広野の指導を仰いだ 写真提供:広野功

 このマウイキャンプの甲斐あってか、西武は2年ぶりの優勝と日本一を達成。デストラーデが42本、清原が37本、秋山が35本とAKD砲が炸裂した。一方、この打線大爆発の裏では、森と広野によるある“密約”があった。