14勝1分け3敗――ヘッドコーチとしてオーストラリア、日本、イングランドの3ヵ国を率いたエディー・ジョーンズのワールドカップ3大会での戦績だ。残した数字を見ただけでも、彼を名将だと言って異論を唱える者はいないだろう。
エディー・ジョーンズはいかにして奇跡を生んだのか! 2015年ワールドカップで「ブライトンの奇跡」といわれた南アフリカ戦から2019ワールドカップでのイングランド準優勝にいたるまで、エディーは何を考え、行動したのか。初の公式自叙伝となる『エディー・ジョーンズ わが人生とラグビー』の訳者髙橋功一さんにこの本のエッセンスを聞いていく。(構成・ダイヤモンド社書籍編集部 初出:2021年4月2日)
運命の女性「ヒロコ」との出会い
――オーストラリア代表に選ばれなかったエディー・ジョーンズが、コーチとしての第1歩を歩むまでのお話が、第4章に出てきます。インターナショナル・グラマー・スクールの副校長に就任して学校運営をしていたという話に驚きましたね
髙橋功一(以下、髙橋) 主に教員のモチベーションの維持と行動管理を担当していたので、いわゆる教頭先生のような立場だったのでしょう。エディーさん自身も実際に授業を担当されていたようで、コーチと教員はよく似ていると折に触れて語っていますし、適職だったのでしょうね。事実、「素行の良くない学生の扱いはうまく、学生が変わっていく姿を見るのが好きだった」と語っています。
学校に通う生徒の保護者の生活レベルも多岐にわたっていて、そうした経済格差が様々な問題を生み、彼らに対する応対はなかなか難しかったようです。今も昔もいわゆるモンスターピャレンツはいて、エディーさんもずいぶん苦労されたのだろうと思います。
――そこで、運命の女性「ヒロコ」さんと出会うわけですよね
髙橋 新設校だったこともあり、草創期には12時間、ときには18時間も働き、激務をこなしていたエディーさんでしたが、7年目にしてようやく「ヒロコ」の存在に気づく余裕が生まれます。当時彼女は、日本の中学生に相当する学年の生徒に、ドイツ語と日本語を教えていたようです。エディーさんは、そんな自立した大人のヒロコさんに惹かれていきます。
ここからエディーさんは、彼らしいアプローチをするんですね。このときエディーさんは、ランドウィックでの選手生活にピリオドを打とうとしていました。長年にわたる彼の貢献に報いるために、チームは短期間のラグビー交換留学生として、エディーさんをイギリスのレスターというクラブチームでプレーさせてくれる予定だったのですが、この渡英になんとヒロコさんを誘うのです。ヒロコさんもこれを受け入れ、これがふたりの「数十年にわたる数々のラグビーを巡る冒険の手始めの旅」になるわけですね。
日系アメリカ人の母親をもつエディーさんが、日本人の女性と結婚する――なんとも不思議な縁を感じます。
――1994年にいよいよ、ランドウィックのリザーブチームでコーチに就任しますね
髙橋 1989年、選手としてもピークを迎えていた29歳のときに、積年の夢だったオーストラリア代表の選考から漏れ、しかもそれを、彼が信頼を寄せていたボブ・ドゥワイヤーの口から告げられます。さらにドゥワイヤーがそのポジションに選んだのは、同じランドウィックの無名の後輩だったわけですから、エディーさんのショックは大きく、彼がここから立ち直るにはずいぶん時間が必要でした。
その後、徐々にコーチという仕事にやりがいを感じるようになります。1994年にはランドウィックのリザーブチームのコーチを自ら志願。見事優勝を果たし、ここから数人のオーストラリア代表を輩出しています。ですがまだアマチュアスポーツの時代だったので、無報酬の仕事だったんですね。
――そして、1995年のワールドカップを境に、ラグビーにもプロ化の波がやってきます
髙橋 1995年の第3回ワールドカップは、南アフリカが国際舞台に復帰して初めての大会で、ホスト国を務めた南アフリカが、多くのスター選手を擁するニュージーランド代表を破って優勝します。このときの様子は『インビクタス 負けざる者たち』という映画にもなりましたから、ご覧になった方もいるのではないでしょうか。ところがエディーさんは、この南アフリカ代表チームを導いたキッチ・クリスティーのコーチングに感銘を受けるのですね。
そして1996年から国際ラグビー戦の「スーパー12」が始まり、プロのラグビーチームが結成され、本格的なプロ化の波がやってきます。エディーさんもチームのコーチを志願したようですが、うまくいきませんでした。
――そして、東海大学の正監督になることによって、日本との縁が始まりますね
髙橋 エディーさんが報酬をもらってラグビーを教える、いわゆるプロのコーチとして第一歩を踏み出した場所は、実は日本で、しかもチームは東海大学だったのです。来日するためにエディーさんは、それまで務めていた副校長という仕事を辞めているんですね。もちろん収入は大幅減でした。
ところがいざコーチングを始めようとすると、3つの壁に阻まれます。
まず指導しようとしても、マネージャーから「外で見ていてください」と、グラウンドの外に連れ出されてしまいます。監督はどっしり構えて、むやみに選手に言葉をかけないということなのでしょう。
さらに選手が、それまで教わってきたオーソドックスなラグビーに何の疑問も抱かず、しかもそれを変える隙のないほどコントロールされたシステムのなかでプレーしていることに驚きます。
さらにそのシステムを変えようとして、チーム全員の前で話したり見せたりするのですが、選手たちは話を静かに聞き、大人しく頷きはしても、いざ練習になると決してその通りには動かなかったのです。
最終的にエディーさんはこれらを打開していくのですが、ずいぶんと葛藤もあったようですね。
――ありがとうございます。今日は、エディーさんの意外な副校長時代、運命の「ヒロコ」さんとの出会い、そして東海大学でのコーチ経験ついてお話をお聞きしました。連載の第5回では、サントリーサンゴリアスのコーチ時代のお話、エディーさんのマスコミとの付き合い方、などについてお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。