阿部は昭和の商業捕鯨を知る最後の世代である。
「いつの間にか人生と捕鯨が一体になってしまいました」
阿部の言葉には偽りも誇張もない。振り返ると、日本の捕鯨が残した航跡は曲がりくねっている。
IWC(国際捕鯨委員会)では、科学や合理性が無視された政治的な駆け引きが行われてきた。
針路が変わるたび、文字通り阿部たちが南極海の荒波をかぶり、頬を削るような寒風にさらされながら、クジラと向き合い続けてきたのである。
現場では何が起きていたのか。
捕鯨と一体となった阿部の人生は、IWCに振り回された捕鯨の現代史そのものだった。
入社2年目の1982年に
初めて南極海を経験した
阿部がはじめて南極海を経験したのは、入社2年目の1982年のことだ。
40万頭か、2万頭か。大隅(編集部注/大隅清治。世界の鯨類研究をリードした「クジラ博士」)の論文が引き起こしたクロミンククジラ論争をきっかけにスタートしたIDCR(国際鯨類調査10ヵ年計画)にたずさわったのである。
1982年は、商業捕鯨モラトリアムが採択された年でもあった。
阿部自身は、さほど深刻に受け止めていなかった。それは、モラトリアムが8年後の1990年に見直され、商業捕鯨が再開できると考えていたからだ。
そして迎えた1986年の漁期。1941頭のクロミンククジラを捕獲し、昭和の商業捕鯨は終わりを迎える。阿部も最後の商業捕鯨を経験した。