イラ立ちは義宮にも向けられた。義宮はこの春から週に4日は常盤松の仮御所に泊まりに来ていた。ふだんは「お兄さま」「義坊ちゃん」と呼び合う仲の良い兄弟だが、街の本屋にふらりと立ち寄るなど、自分と比べてはるかに自由な生活を送っている弟の話を聞くと、皇太子の心は穏やかではなかった。

 傅育官の村井長正の影響でキリスト教に深い関心を持った義宮はその話をしたがったが、皇太子は批判的だった。学友と談笑しているときに義宮が入り込もうとすると、「うるさい、あっちへ行け」とかんしゃくを起こしたという(*2)。

 英語教師のブライスも皇太子の近況として「前途光明なきこと、単調なこと、性的年頃のこと」を田島長官(編集部注/田島道治宮内庁長官)に話した。心配した田島はすぐ小泉(編集部注/小泉信三は東宮御教育常時参与=皇太子の教育責任者だった)に電話している(*3)。

 義宮のキリスト教へののめり込みは裕仁天皇にも田島から報告された。

 天皇は「義宮さんとてもいつ皇位継承するといふ事がないとはいはれないので、矢張り偏らぬ事がよいと思ふ」「勿論日本人の大多数が基督教になつたといふ場合は、象徴としてもそれでいいかも知れぬが(*4)」と言い、その後も明仁皇太子に次ぐ皇位継承順位の義宮が1つの宗教に傾斜することに懸念を示した。また、明仁皇太子についても、移居したころは喜んでいた常盤松の仮御所が近ごろは気に食わない様子なので「どうも女気のない事でうるほひのない為か」と案じている。

 田島も「男ばかりのうるほひの足らぬ事が無意識に御不満かとも存じます」と応じている(*5)。

 田島は後日、皇太子の性向として「御自分のきらいないやな事は少しもなさらない様に御見受け致しました」として、将来の天皇としては気の進まないこともやるべきと裕仁天皇に報告している。天皇は「確かにその傾向がある」と憂慮した(*6)。

*2 『知られざる天皇明仁』118~120頁

*3 7月3日の田島の日記(『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録6 田島道治日記』169頁)

*4 『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録2 拝謁記2 昭和25年10月~26年10月』(岩波書店、2022年)137、148頁

*5 同137~138頁

*6 同192頁