1951年5月17日、当時の皇太后が急死した際、上皇はその時、皇太子だった。喪に服す皇太子が募らせた弟へのイラ立ちの理由とは。※本稿は、井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝 上 戦争と新生日本』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。
占領下で控えめな葬儀となった
皇太子の祖母・皇太后の逝去
1951年5月17日、天皇一家を突然の不幸が襲った。皇太后の急死である。皇太后は赤坂の大宮御所で午後3時半に突然狭心症の発作に襲われ、侍医による応急措置を受けたが40分後に死去した。66歳だった。危篤の急報を受けた裕仁天皇、良子皇后は大宮御所に駆けつけたが、臨終に間に合わなかった。
明仁皇太子は常盤松(編集部注/渋谷区)の仮御所で2人の学友とともにエスター・ローズの個人授業を受けていた。授業が終わり、目白の清明寮(編集部注/学習院の学生寮)へ戻るために仮御所を出たあとに皇太后危篤の連絡が入った。
携帯電話などない時代であり、皇太子も祖母の死を看取ることはできなかった。その後、皇太子は大宮御所で霊前に拝礼したときのこと、亡き祖母を悼む気持ちを歌に詠んだ。
御園生の草木は青くにほへども音しづまれるとののきざはし。
今一度あひたしと思ふ祖母宮に馬の試合の話をもせず(*1)。
皇太后は「貞明皇后」と諡(おくりな)され、6月22日に皇族の墓所である文京区の豊島岡墓地で葬儀が行われた。戦後初の皇族の葬儀だった。これまでの慣例では未成年皇族は葬儀に参列しなかったが、このときは明仁皇太子や義宮(編集部注/皇太子の弟、のちの常陸宮正仁)ら未成年の皇族が参列した。戦後の新例だった。
さらに葬儀では鳥居が設置されなかった。占領下であり、政府・宮内庁は「葬儀費用の国費支出が新憲法の政教分離の原則に抵触する」とGHQから指摘されることを恐れた。見かけ上の宗教色を薄めるためだった。
旧皇室服喪令に準じ、天皇は皇太后死去の日から1年間、皇太子は150日間喪に服すことになり、各種祝賀行事が取りやめになった。
これにともなって、この年の皇太子の誕生日前後に予定されていた成年式と立太子の礼は天皇の喪が明ける翌年に延期されることになった。
祖母を喪ったイラ立ちが
自由を満喫する弟に向かう
学友の橋本明は、祖母を失った皇太子の悲しみは深かったと言う。その喪失感と実存の悩みが折り重なったのか。この時期、皇太子のイライラはつのっていった。
「常盤松御所2階の居間東端翼に置かれた皇太子の机面は微細な穴で覆い尽くされていた。羽虫が飛び込んで来る。それを三角錐の一端や千枚通しで刺し殺した跡であった。無聊であり孤独な青年の姿がそこに映し出されてはいなかったか」と橋本は書く。