The Legend Interview不朽 飯田 亮・セコム創業者

 飯田亮(1933年4月1日~)が、日本初の警備保障会社とされる日本警備保障(現セコム)を創業したのは62年のことである。

 東京オリンピックで選手村などの警備を民間企業として一手に担ったのを機に、事業を拡大させた。オリンピックの翌年には、同社をモデルにしたテレビドラマ「ザ・ガードマン」が人気を博し、一気に知名度を上げた。さらに、人的警備だけでは契約先が増えれば増えるほど社員が必要になり管理に限界が生じると考え、いち早く機械警備のシステムを構築した。

 87年6月13日号に掲載されたインタビューでは、日本が戦後の混乱期を抜け出し高度成長を経て成熟に向かいだすタイミングで、次第に強くなる安全欲求をいかにシステム化し、社会に定着させたかについて振り返っている。インタビュアーは文化精神医学者の野田正彰だ。

 印象深いのは「僕は、社会に役立つ仕事以外に事業は成立しないと考えている」というコメントだ。その原体験は、東京・日本橋馬喰町で酒問屋「岡永」を経営していた、父親の言葉だという。

「おやじは敗戦直後、酒の統制で商売ができなくなって貧乏をした。周りでは闇屋をやって派手に生活している連中がいる。しかし、おやじは『社会の役に立たないことなんだから、そのうちみんなつぶれる』と言うわけです。僕は中学2年くらいで、そうかなと思っていたら、2~3年でバタバタつぶれた。強烈な印象です」と言うのだ。

 このインタビューの5年後である92年7月、創業30周年を迎えた際、飯田は社員に向けたメッセージの中で「セコムの基本理念である『社会に有益な事業を行う』を常に考えの根底に据え、事業の選択を行うべきであり、いささかも逸脱をしてはならない」とげきを飛ばしている。

 また、企業に対する評価は「もうかっている会社ですね」「有名な会社ですね」「大きな会社ですね」「優秀な人材がいる会社ですね」などさまざまあるが、「私は、何よりも『いい仕事をしている会社ですね』の言葉を受けたい」とも強調している。

 自らを「社会システム産業」と名乗り、社会からの信頼なくしては存在し得ないと心の底から思うに至った経緯は、このインタビューからもうかがい知れる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

幼年期――親父に間違ったことは
いけないと言われ続けた

レジェンドインタビュー 1987年6月13日号飯田亮1987年6月13日号より 拡大画像表示

──飯田さんは、1933年、東京都の下町の酒問屋に生まれる。5人兄弟の末っ子。1945年の2月に焼け出されて、葉山(神奈川県)の別荘に移り、湘南中学(現湘南高校)へ進学。「めちゃくちゃに遊びまくり」、放埒な青春期を過ごす。

飯田 末っ子だからかわいがられましたね。

 父親はすごく忙しいんだけど、よく家族を旅行や食事に連れていきました。非常に新しもの好きで何か新しい仕事があると、人より先にやりたがった。だから僕も、新しいことに対する拒絶感を持たずに育ちました。それに、間違ったことはいけない、正しいことだけが社会に通用するんだ、これは年中言われ続けていた。

 いちばん仕込まれたのは、権利と義務と責任の関係。酒問屋は小売りに掛け売りする。商品を売ると同時にその商品の代金を貸す。しかし、それでは回収しにくいわけです。本来お金を取る権利はあるんだけど、金を貸しただけの方が取りいい、商品を売った途端に取りにくくなる、こんな権利と義務と責任がはっきりしない商売はないというわけです。商売とはもっとはっきりした契約であるべきだと教え込んだんでしょうね。