中でも船舶需要の高まりを予見し、三井物産を辞めて自ら海運会社を始めた内田信也(1880年12月6日~1971年1月7日)は、山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成り金の一人だ。徒手空拳、一介のサラリーマンから独立し、たちどころに大金持ちとなった。
とにかくカネが有り余り、派手なカネの使い方に関してはさまざまな逸話が残っている。ある宴会では、ガラスの箱に大きなタイを泳がせて、それを引き出物にしたという。神戸の須磨に建てた敷地5000坪、500畳敷きの日本間を備える通称“須磨御殿”も有名だ。あるいは、内田が列車の転覆事故に遭い、外に出られなくなったときに、救助に来た鉄道職員に「僕は神戸の内田だ。金はいくらでも出す。助けてくれ!」と叫んだというエピソードもまことしやかに伝えられている。
「ダイヤモンド」1967年9月4日号では、船成り金になるまでの経緯、ぜいたくざんまいのエピソードの真相、好景気から一転して大恐慌に陥った際にどう逃げ切ったかを、内田自身が子細に語っている。どうやら、巷間に伝わる逸話はデマもあるようだ。ちなみに、内田は後に鉄道大臣になるのだが、なにかといえば「神戸の内田だ」を引き合いに出されてへきえきしたという。
なお、50年に朝鮮戦争が勃発したことで、日本国内で戦争特需が巻き起こったとき、ダイヤモンド誌は特需の行方について内田に見立てを聞いている(『第1次世界大戦で大稼ぎした“船成り金”、内田信也が語った戦争特需』)。そちらも併せてご覧いただきたい。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
“欧州の戦雲急なり”の報に
三井物産を退社、独立
第1次世界大戦が勃発した大正3年、その頃、三井物産船舶部に勤務していた私は、北海道炭鉱の磯村豊太郎社長さんから、同社営業部長に来ないかと勧められていた。私も、その気になっていたところ、三井物産常務の福井菊三郎さんが、どうしても私を三井から手放せないと言いだした。
たまたま、そのことで、磯村社長さんの元へ相談に行っていたところへ“欧州の戦雲急なり”との号外がもたらされた。
一読した私は、いっそこの際、会社を辞めて独立し、この千載一遇の好機をつかむにしかずと決心した。早速退社届を出して、その足で神戸へ帰った。