もちろん、これらの提案が実現されたとしても、加害行為がゼロになるわけではない。

 ハラスメント講習を受けた演出家によるセクハラ行為、ベテランの俳優講師による後輩俳優へのセクハラ行為、オーディション文化が浸透したアメリカでのプロデューサーによるセクハラ行為、これらは実際にここ10年の間にすべて起きてきたことだ。

 大事なのは、これらの対策を実践したとして、それでやっとスタートラインに立つということだ。人間は常に不完全な存在であるから、どんなに学んだとしても過ちを犯す可能性が残されることを前提に、ハラスメント対策は継続的に辛抱強く行っていかなくてはならない。

誰もが表現に携われる環境を
社会全体で醸成し守っていくべき

 表現の多様性とは結局は人間の多様性である。

 しかし、スタートラインからすでに平等ではないのが、日本の映画業界の実情である。もちろん、完全な平等や公正などは世界のどこを探しても存在はしない。ただ、近づけるための努力はできる。

 差別なく誰もが表現に関わることのできる社会でなければ、本当の意味での表現の多様性は訪れない。どれだけ多くの人が表現の当事者になれるか、その選択肢を得られるか、その一点こそが大切なのである。

 もちろん、当事者性ばかりが表現ではない。非当事者であっても取材を重ね、想像力を駆使して描けるものはあるだろう。しかし、「フェミニズムに理解のある男性監督が女性に寄り添った表現をする」ことと、「女性自身が表現の当事者になる」ことの意味は大きく異なる。

 欧米で黒人が奴隷だった時代に、詩を書き戯曲や小説を発表した黒人の作家たちがいた。黒人監督によるブラックムービーの運動があった。それらのことが、どれだけアメリカの白人至上主義の社会において黒人への理解を深めていくのに貢献しただろうか?

 白人が黒人を慮った作品を作ればそれでよいわけではない。トランスジェンダーや、あるいは聾者などの当事者による表現においてもまた同様である。誰もが表現に携われる環境は社会全体で醸成し守っていかないといけない。それは、結果として社会を変えていくことにつながるだろうが、何よりもまず大切なことは、表現することそれ自体、その愉しみから誰も排除してはならない、ということである。