精神論に頼るのはナンセンス
日本に必要なのは支援制度

 昨年、SNS上である投稿が話題になった。インボイス問題に関する発言であったが、要約すると「たとえ貧しくてもゴッホのように創作を続けられることが才能」というものだった。困窮を訴える現代のクリエイターに対し、ゴッホを引き合いに甘えるなと揶揄する意図がそこには明確にあった。しかし、これはそもそも前提を間違えている。

 生前に1枚しか絵が売れなかったゴッホがなぜ画家を続けられたかといえば、ひとえに家族の支援のおかげである。弟テオの支えがあったからこそ、彼は貧しいながらも絵を描き続けられたのだ。つまり、彼もまた幸いにも「恵まれた人」のひとりだったといえるのだ。そして、当時の美術市場からは見向きもされなかったゴッホの絵が、100年後、どれだけの富をオランダという国にもたらしたか。あるいは、人類にとってどれだけ大きな精神的な財産となったか、計り知れない。

 ゴッホの生涯は、同時代的な市場の評価のみでは芸術の価値は測り切れないこと、そして芸術家の貧困を支えるのは精神論ではなく「テオの仕送り」のような具体的な支援であることを教えてくれる。

 実際、今まで挙げてきた映画業界の貧困問題、労働問題、不平等の大半は、そのほとんどがお金で解決できることばかりだ。少なくとも、完全な解決までの道は険しくとも、改善はできる。

 お金があれば、撮影日数を増やすことができる。撮影日数が増えれば、長時間労働や徹夜撮影を回避できる。寝不足での運転事故も減り、集中力低下を防ぎ、現場での安全も高められる。お金があれば、ハラスメント講習をすべての撮影現場で行えるよう支援することができる。お金があれば、ベビーシッターに対する補助金を出したり、託児所を増やすことでママ、パパが働きやすい環境を作れる。

 お金があれば精神論のみに頼らずに、問題を解決できるのだ。

 フランスの文化労働者のための失業保険制度の根幹にあるのは、そういった視点なのではないだろうか。その制度は「家族の支えも受けられず、絵筆を折っていったかもしれない無数のゴッホ」を今も支援している。しかし、そのような制度が不足する日本においては、過酷な環境をサバイブできることが作品を作り続けるための必要条件となってしまうのだ。それは未来のゴッホの可能性を潰していくことと同意である。