正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!

【天才の苦悩】コレラ・神経衰弱・孤独…夏目漱石が乗り越えた人生の試練イラスト:塩井浩平

人生の節目節目で「病」に振り回される

夏目漱石(なつめ・そうせき 1867~1916年)

江戸(現・東京)生まれ。本名・夏目金之助。帝国大学英文科卒。代表作は『吾輩は猫である』『こころ』『坊っちゃん』など。明治時代を代表する近代日本文学の巨匠。幼少期に養子に出されるなど、波瀾に満ちた少年時代を過ごす。漢学を学んだことが、小説における儒教的な倫理観や東洋的美意識を磨いた。幼いころから病気がちで、大学予備門時代には、結膜炎にかかって進級試験が受けられず落第する。明治33(1900)年、文部省の留学生としてイギリスに留学するも、神経衰弱となり帰国。その治療の一環として小説を書き始め、38歳のとき『吾輩は猫である』でデビュー。その後も次々と名作を発表する。晩年は複数の病気や神経症に苦しみながらも執筆活動を続けるが、胃潰瘍が悪化して49歳で死去。

幼いころから波瀾に満ちる

 漱石は慶応3(1867)年生まれで、明治の年号と満年齢が重なります。

 慶応4年が明治元年となり、このとき漱石の年齢は1歳。明治2年に2歳、明治3年に3歳……というように、まさに明治時代とともに成長したわけです。

 漱石の人生は、幼いころから波瀾に満ちていました。

眼科の待合室でひと目惚れ

 そもそも漱石は、生まれてすぐに養子に出されます。ところが、養父母の間で問題が起こり、9歳のとき、また夏目家に引きとられることになります。どこにも居場所がないなかで幼少期を過ごしたのが、漱石なのです。

 その後、帝国大学英文科に進学しますが、23歳のときにコレラ(細菌性の感染症)が大流行。漱石自身はコレラの罹患を免れたのですが、前述のように20歳のときにはトラホーム(伝染性の結膜炎)にかかっています

 また、初恋の相手は24歳のときに通院していた眼科の待合室でひと目惚れした女性でした。

 とにかく、人生の節目節目において、「病」が漱石を振り回します。

座禅で精神を鎮めようとするも挫折

 肉体的な病が重なったことに加え、幼少期の精神的な負担の影響もあって、漱石には心理的なストレスが積み重なるようになります。

 大学を卒業してから士官学校で英語の嘱託教師になりますが、この仕事がかなり厳しく、精神的に追い詰められたこともありました

 そのため、漱石は鎌倉・円覚寺で座禅を組むなど、自らの精神を鎮めようとします。

 しかし、結局のところ解決策は見つからず、この体験は漱石の神経衰弱や精神的な苦しみと結びつき、著作における本質的なテーマになっていきます。

ロンドン留学で神経衰弱が悪化

 32歳のとき、漱石はロンドンへ留学しますが、当時は黄色人種に対する人種差別が厳しく、漱石自身、外出することを嫌がりました

 さらに、留学費の不足や孤独感から、神経衰弱はますます悪化してしまいます。

「夏目漱石がロンドンで発狂した」という噂まで広まったほどです。

 結局、2年の留学期間を終え、ようやく日本に戻ります。

 ところが、漱石のトラブルはまだまだ終わらなかったのです。

※本稿は、ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。