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宮沢賢治、実はベジタリアンだった!? 信仰が生んだ“驚きの食生活”イラスト:塩井浩平

若いころはさんざんな目に遭う

宮沢賢治(みやざわ・けんじ 1896~1933年)

岩手生まれ。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。代表作は『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』『注文の多い料理店』など。商家の長男として生まれるが、幼少期から病弱で内向的な性格だった。早くから仏教に関心を抱き、特に法華経に傾倒。盛岡高等農林学校在学中に文学への関心を深め、在学中に詩や童話を書き始める。卒業後は農学校の教師として働きながら創作活動を続けた。大正13(1924)年には自費出版で童話集『注文の多い料理店』を刊行するも、当時はほとんど評価されなかった。自身の理想郷を「イーハトーヴ」と名づけ、無料で肥料計算の相談にのったり、土地を開墾して自身で野菜を売り歩いたりした。昭和8(1933)年に37歳で急性肺炎のため早世

宮沢賢治は37歳という若さで、肺炎により亡くなっています。その人生は、ある種の禁欲への信念や信仰といったもので貫かれました。

賢治が独特の文学的世界観を生み出せたのには、そういった禁欲信仰が影響しているのは間違いありません。

幼少のころから病弱で、赤痢に感染したり、鼻炎の手術を受けたあと高熱を発してチフスの疑いで入院することになったり、さらには看病中の父親も倒れるなど、とくに若いころはさんざんな目に遭ったようです。

作品に法華経の教えが影響

転機が訪れたのは、18歳のときでした。

僧侶にして東京大学講師だった島地大等著『漢和対照妙法蓮華経』を読んだことがきっかけで妙法蓮華経(法華経)に感銘を受け、熱心な浄土真宗の信徒だった父親に無断で、日蓮宗に入信することを決意します。

そのため賢治の作品には、法華経の教えが影響しています。

入院先の看護師に片思い

賢治は、禁欲への信念を貫いたとはいえ、幼いころからずっと禁欲だったというわけでもありません。

18歳のとき、賢治は鼻の粘膜が腫れて鼻づまりや嗅覚障害を起こす「肥厚性鼻炎」の手術をするため、岩手病院(現・岩手医科大学附属病院)に入院しました。

しかしその後、発疹チフスの疑いのある高熱を発症し、再入院。そこで賢治は、高橋ミネという看護師に片思いながら初恋をします。

好意を抱くも両親に反対される

かなり強く好意を抱いていた賢治は、退院後、ミネと結婚したいと両親に申し出ましたが、強く反対されました。しかし、そもそも賢治の片思いなのです。

このエピソードから、賢治はけっして恋愛に無頓着だったわけではなく、恋心を抱いていた時期もあったことがうかがえます。

菜食主義だった5年間
日蓮宗への興味関心

実は賢治は21歳から5年間、肉や魚を摂らず、野菜だけを食べていたベジタリアン(菜食主義者)でした。友人に「私は春から生物のからだを食うのをやめました」と伝えています。

よく知られる賢治の代表作である詩「雨ニモマケズ」には、「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」という一節がありますが、これぞまさしく賢治の菜食思想をよく表しています。

法華経に心を奪われ
熱烈な信者に

それにしても、なぜベジタリアンになったのか? それは、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に在籍していたとき、獣医科で解体実験される動物の悲鳴を聞いて、肉を食べることに嫌悪感を抱いたこともありますが、日蓮宗の影響を強く受けています。

先にも触れたように、宮沢家は古くから浄土真宗の家系でしたが、賢治は18歳のとき、法華経に心を奪われ、熱烈な信者となりました。

そして24歳のとき、法華経を信奉する日蓮系信仰団体「国柱会」に入会したのです。国柱会は政治的な活動も行っており、国家主義やナショナリズムと結びついた独特な集まりでした。

※本稿は、ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。