そして、周囲からは大ベテラン、大先生と思われているような人だって、本当はもっとばかばかしい話をしたり、世代の違う人とのギャップを楽しんだり、自分の知らない範囲やジャンルの情報を仕入れたいと思っているかもしれません。
これは若い方から見た場合も結局は同じことです。年齢を自分よりも重ねている人は、たまたま何十年か先に生まれただけの存在なのだと考えれば、そうした人々から経験や考え方を聞き、うまく取捨選択していくことで、恐らくその後の人生や活動のヒントとなり、生きる上でのさまざまなリスクを避けながら効率よく進むこともできるかもしれないのです。
そして、何らかのピンチに陥ったときも、いろいろと助けてくれるかもしれません。その結果、わざわざリスクに直面せず、上手に回避することも可能でしょう。
せっかく縁があり、同じ社会や組織で交差する関係なのですから、年齢や肩書、経歴や実績などといったつまらないフィルターを外して、フラットな人間関係を作ろうという努力をお互いがしたほうが、結果としてその組織も、社会も豊かになれるのではないでしょうか。
年長者を敬うこと、肩書や経験を敬うことは、伝統的に大切な振る舞いだと考えられていますし、私もそれ自体に強く反対はしません。ただ、そのためにいつの間にか失っているものがあるという意識を、社会全体で共有できるといいでしょう。
世代を超えた交流が脳を活性化
若い力と共に成長する社会
私にも、未熟な自分を導いてくれた、尊敬できる先輩たちがいます。もうかなりの高齢になられ、引退をされた方も少なくありません。他界された方もいらっしゃいます。
私のような、我が道を歩いてきたような人間であっても、自分が年を重ね、年下の方たちばかりと仕事をするようになったことに、多少のさびしさ、不安感を持たないわけではないのです。もちろん、若い方たちと一緒に仕事をすること自体はとても楽しいのですが、あえて言うなら責任感のようなものを見いだしてしまうのです。
それと比較すれば、尊敬できる先人がいた頃は、言葉を選ばずに言えば、とても楽でした。プレッシャーを感じることもなく、何かあれば彼らが教え、注意してくれて、ときにはサポートさえしてくれるので、安心だったわけです。