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「仕事終わりにビールを飲めるから、つらい仕事も頑張れる」と考える勤め人は多いだろう。かくも人間は何かに「依存」して生きている。脳の報酬系はこうした快感の刺激を受け、本人の意志とは関係なく反復する癖がつき、やがて「依存症」を招く。では、なぜ快感にほど遠い自傷行為が習慣化することがあるのか?本稿は横道 誠、松本俊彦共著『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』(太田出版)のうち、精神科医である松本俊彦の執筆パートの一部を抜粋・編集したものです。
このご褒美があるから頑張れる!
「依存」と「依存症」の違い
依存症とはどんな病気でしょうか?
ここで注意すべきなのは、「依存」と「依存症」は別であるということです。
断言しますが、依存は決して悪いことではありません(ここを誤解すると、マッチョな自律論や自己責任論が噴出してしまいます)。
実際、みんな何かに依存していますよね?仕事を頑張ったご褒美として、帰宅するなり缶ビールのプルリングを開けたり、ケーキやチョコレートといった甘いものを自分にごちそうしたりなんてことは、誰だってやっていることです。あるいは、熱いコーヒーやお茶、あるいはタバコの紫煙、パチンコやゲームでもよいでしょう。要は、「それがあるから頑張れる」、もしくは、「それがないと頑張れない」といったものがある限り、その人は何かに依存しているといえるでしょう。
人はみな何かしらに依存しています。酸素や水分、食物はいうにおよばず、仲間や家族といった親密な関係性なしに生きていける人などいません。人間は弱い動物なのです。
問題は「依存症」の方です。
1日の仕事を頑張った後のビールのおかげで翌日も元気に仕事ができるのであればよいのですが、夜に飲みすぎて、翌日体調がすぐれずに仕事のパフォーマンスが低下したり、あるいは欠勤してしまったりする。あるいは、酔った際の暴言や暴力によって、自分にとって大切な人を傷つけ、関係性を壊してしまう。これらは「健康的な依存」とはいえません。
そして、こうした事態をたびたび起こしながら、なおもお酒がやめられない、あるいは、何度もやめようと決意しては再び飲むことをくりかえしてしまう──これが依存症です。たくさんのデメリットが明らかなのに、それでもつかの間の安堵を求めてやまない「不健康な依存」、それが依存症という病気です。
薬物の「違法」「合法」は
その社会の多数決で決まる
けれども、この厄介な病気、「病気」といいながら、徹頭徹尾、医学的疾患ともいえず、社会のありようにもいくらか影響を受けている面があります。
たとえば、最近よく子どもを持つ親御さんから、「子どもは夜通しずっとゲームをやっている。ゲーム依存症だと思う。何とか治療してほしい」と相談されます。でも、親御さんが苛立つのは、それがゲームだからではないでしょうか?もしも自分の子どもが夜通し勉強していたとしたら、親は決して精神科医に相談などしないはずです。
結局のところ、親が苛立つのは、子どもが自分の思い通りにならないからなのです。