その意味では、依存症は、時代の文化や価値観、あるいは社会的通念と無関係ではありません。
それから、ひとくちに依存症といっても、依存する対象によって治療の場を訪れるタイミングや基準が異なります。
たとえば、毎日大麻煙草をふかす人と、毎晩お酒を痛飲する人を比較してみましょう。前者は、逮捕によって「社会的に殺される」ことを危惧して治療の場に登場することがありますが、皮肉にも心身は健康そのもので、「こんな元気な人が精神科に受診してもなぁ」と複雑な心境になります。
一方、後者は、すでに肝臓がボロボロになり、土気色の顔をした、半ば瀕死の状態で診察室に登場し、「ちょっと来るのが遅かったなぁ。この状態だと精神科の前にまずは内科だなぁ……」と、別の意味で複雑な心境になります。
ここに依存性薬物(あ、アルコールはれっきとした薬物ですよ)の謎があります。実は、ある薬物が違法か合法かといった区別には、明確な医学的根拠などないのです。少なくとも「健康被害や依存性が深刻だから違法」ではありません。主流派に愛されている薬物は合法で、少数派に愛されている薬物は違法と、どちらかといえば多数決で決まっています。
世界の多数派を占めるのは
アルコールに寛容な文化圏
世界中の様々な民族や文化にはそれぞれお気に入りの薬物があります。アメリカ先住民族は幻覚サボテンを宗教的儀式に使う風習があり、成人を迎える青年たちは長老たちから「正しい幻覚サボテンの使い方」を教わる風習がありました。
大麻もそうです。大麻は、かつては中近東地域、アルコール禁止のイスラム圏における、ささやかな娯楽に過ぎませんでした。
ところが、16世紀以降、植民地化された南米の砂糖プランテーションにおいて、アフリカから強制的に拉致された奴隷が持ち込みました。そして、サトウキビ畑の脇で大麻の栽培を行って、過酷な強制労働の合間に疲れを癒す嗜好品として重宝され、やがて中南米の大衆的娯楽となりました。米国の白人たちはその習慣がどうにも我慢がならなかった──というのは嘘で、本当は中南米からの移民のことが気に食わなかったのでしょう。だから、大麻を目の敵にし、法律によって規制したのです。
現在、世界の多数派は西欧的なキリスト教文化圏が握っています。日本を含む、キリスト教信仰国ではないアジアの国々ですら、その文化圏──赤ワインをイエス・キリストの血と捉える、アルコールに寛容な文化圏──に包摂されて、その枠組みのなかで違法/合法が定められているにすぎないわけです。