たとえばリストカットのような自傷行為を考えてみましょう。確かにいずれの行動も、一見すると、快感にはほど遠い行為です。しかし、それでも、それよりもはるかに大きい苦痛から一時的に意識を逸らすのに役立つ可能性があります。そうであればこそ、リストカットはしばしば習慣化するのです。

 こうした観点は依存症臨床ではよく知られているものです。かつて米国の依存症専門医エドワード・カンツィアンは、

「依存症の本質は快感ではなく苦痛であり、人に薬物摂取を学習させる報酬は快感ではなく、苦痛の緩和である」

 と指摘し、「自己治療仮説」という考え方を提示しました。この自己治療仮説は、私たちに依存症の本質を教えてくれます。それは、依存症は確かに長期的には命を危険にさらしますが、皮肉なことに、短期的には、今いるしんどい場所や状況に踏みとどまり、「死にたいくらいつらい今」を一時的に生き延びるのに役立つことがある、ということです。

依存症や自傷行為は
支援を受ける「入場券」

 人が何かにハマるとき、そこには必ずピンチが存在します。大切な関係性の喪失や破局のような一大事かもしれませんし、少々無理をしている、今いる場所が何となく居心地が悪いといった程度のこともあるでしょう。程度の差こそあれ、ピンチにはちがいありません。

 そのことは、依存症の臨床現場でも日々痛感させられています。というのも、診察室で酒やクスリの話をしているのは、治療を始めてせいぜい最初の1、2年だからです。

 治療関係さえ続いていれば、大抵、酒やクスリの問題なんて多少ともよい方向に向かうものであり、それに伴って次第に診察室で話題になるのは、日々の生活の困りごとや、今また口を開いて流血しはじめた心の傷の話です。そうした話を聞きながら、私はこう考えるのです。「この患者さんがほんとに困っていたのは、酒やクスリのことではなくて、こっちのことだったのかも……」と。

 その意味では、依存症の問題はそうした根っこにある生きづらさへの応急処置にすぎず、問題の本質は酒やクスリとは別の場所にある──経験を積めば積むほど、私はそんな思いを強めてきました。これはリストカットなどの自傷にも当てはまります。あるいは、こう言い換えてもよいでしょう。曰く、依存症や自傷は「支援につながるための入場券」にすぎない、と。