掃除なども、一見、小関先生は生徒と楽しそうにおしゃべりしているだけにしか見えない。それでも掃除はきちんと終わり、小関学級にはゴミ1つない。落ちていても、誰かがすぐに拾うのだ。
それを見てしまうと、さぼっている生徒には脇目もくれず、自ら必死に掃除している教員は何なのだろうと考えさせられる。小関先生は断言する。
「子どもの様子を観察することは大事。ただ、教員が子どものご機嫌をとるような環境で、子どもが育つわけがない」
教育委員会はクレームを
受けつけるカスタマー窓口
しかし今、「教員はサービス業」という認識が、教員の間でも普通になりつつある。それを支えている新自由主義的な世界観は、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの解釈を借りれば、社会のあらゆる活動や関係を経済的な価値観でのみ分析しようとする偏った世界観だ。
それは、教育までをも「付加価値的な投資」と見なし、生徒・保護者を学費や納税で教育という「商品」を購入する「お客様」、教員を教育という「サービス」を提供するサービス労働者、教育委員会はクレームを受けつけるカスタマーサービスへと置き換えてしまう。
「教育委員会に訴えてやる!」そんな言葉を聞いたことのある人も少なくないだろう。教員が子どもの機嫌をとろうとするのも、生徒に対する強い指導が難しくなってきているのも当然だ。
そうして今日の教員は、自分のアイデンティティをも揺るがす厄介なジレンマを抱えることになる。それは「お客様を教育しなければならない」というものだ。この難解なジレンマを抱えた学校と教員は、失われた自らの尊厳をいかに取り戻せばよいのだろうか。
家庭から歓迎される
小学校の形とは?
貧しい地域に位置する、とある小学校。この地域は昔から学力が低く、親たちの中にも大学を卒業した人は少ない。そんな地域の期待を背負って新しくできたこの小学校は、従来の小学校とはだいぶ雰囲気が違う。小学校といえども1秒たりとも無駄にしない、はりつめた雰囲気の中で授業が進められる。