自分1人で立てることを、その時に証明したようなものなので、「じゃぁ次は一歩足を出せばいいだけだね」と私はまた簡単に思いました。「立つことができるんだったら、両方の足を交互に出せれば歩けるよね?」。素人の発想は単純です。
4月28日に最後のMRIの検査がありました。そこでわかったのは、夫の頸部に詰まっていた血栓が自然に溶けて血流が復活し、頭全体に毛細血管が張り巡らされて元気に活動していたということでした。私は「はぁ」といって聞いていました。
「診断」というのは
その時点での未来予測
というより、よくわからなかったので、そういうものかと単純に思っていたら、「いやぁ、運の強い人ですね」とのお言葉。もちろんこれは血流を再開させるという、一種の賭けみたいな治療に踏み切ってくださった先生方の判断があってのことだったのですが、それにしても「奇跡」とか「運が良い」という言葉が頻出するので、おもしろいものだなと思いました。
先生方の言葉を借りると、「私たちの予想を超えた回復ぶり」ということで、後遺症は当初の見通しよりはるかに軽い予測になりました。
普通、夫のような症状の方は座位を保つのが難しいそうです。でも夫は、初めて車椅子に乗ったときから背筋伸ばして座っていました。言葉も、相手の話すことを繰り返すことしかできないそうです。

北原かな子 著
でも彼は、抽象的な言葉も「ごはん」という単語も出てきます(生まれながらの仙台弁で)。無声音だったらもっと何か言っていたので、初期の予想が次々に覆ってくる印象を受けます。
要するに診断というのはその時点での未来予測みたいなものだろうと私は実感しました。現代はCTやMRTなど、外から見えない部分を画像に映し出す技術が進んでいます。
しかし、やはりそれが全てではないのかもしれない。画像は切り取られた一瞬であり、その前後にはその人の人生が流れています。そこにどんな可能性が潜んでいるかもわからない。
いいかえるなら、どれほど絶望的な診断であっても、次の日、あるいは未来はどうなるかは誰にもわからないということなのかもしれないと思いました。