渾身の「あ、り、が(とう)」
止まらなかった涙
夫はすぐに和室状態の環境に慣れました。座椅子も使わず、ずりずりと自分でロッカーのほうに移動し、テーブルが安定する場所を自分で確保して普通に食べるようになりました。
食事はすでに普通食でしたし、ちょっと見た目には、胡座で座る、ものぐさな左利きのおじさんが、食器も持たずにスプーンでぱくぱく食べてるようにしか見えません。なんとも愛嬌がある姿です。そんな中で初めて自分の意思で発した言葉がありました。
4月26日の夕食後、家族でおしゃべりを楽しんでいました。私が娘を指差して「だれ?」と聞いたら、無声音ながら娘の名前を答えてくれたので、その日はそれだけでも驚きでした。
そして夜9時。いつものように帰ろうとしたら、夫が体を起こし、私を指さして、一生懸命なにかを言おうとします。何だろうと思って、とりあえず窓のブラインドを下げてみました。「これでいい?」と聞いても、どうやら違う。暑いのかなと思って、「暑い?窓あけようか?」と聞いてみました。しかし、それも違う。
なんだろうと考えあぐねていたら、目を見開いて、一生懸命、1つひとつの音を絞り出すように、「あ、り、が」と言います。
「え?パパ、今、ありがとうって言った?」と言ったら、頷き、そして安心したように、横になりました。
はじめて、絞り出すようにしていってくれた言葉が、家族に向けた「あ・り・が(とう)」。この時は全身に感動がこみ上げて、涙があふれでました。
エレベーターで一緒になった2人の看護師さんがもらい泣きしてくれて、4人で泣きました。涙が止まりませんでした。
「全失語」という診断を
覆した夫の言葉たち
4月末くらいになると、夫の食欲は加速しました。食べる意欲は人生を救うと何度も思ったものです。食欲はもうほんとに見事なくらいです。
ある日の夕方におやつを出したら、それは気に入らなかったらしく「ごはん」と言います。「ご飯はまだだよ」と答えました。しかし考えてみると、夫はその当時「全失語」という診断を受けていたはずで、目の前に食事がないのに「ごはん」と言えるはずはなかったようなのです。